祈りと想像力

2011-06-18 samedi

名越康文先生と橋口いくよさんとの『ダ・ヴィンチ』鼎談を新大阪のホテルでお昼ご飯を食べながら4時間。
テーマは「原発と祈り」。
先般の橋口さんの「原発供養」に触発され、また「うめきた大仏」構想(これも発案したのは若い女性でした)に「辺境ラジオ」で出会い、21世紀の日本の霊的再生の方向について、だんだん見通しが見えてきた。
「そういう話」のときはなぜかいつも名越先生といっしょというのがさすがに奇縁である。
名越先生はこの数年真言密教の修行に励んでおられ、仏教書を耽読されているので、話はいきなり「祈り」とは、「瞑想」とは、「成仏」とは、「リアル」とは、「居着き」とは・・・といったハードコアな話題に突入。
想像と現実は位相が違うのか、地続きなのか。
私たちは「地続き」だという考えである。
すみずみまで克明に、細密に想像しえた経験からは、私たちは現実の経験とほとんど同じだけの経験知を得ることができる。
実年齢がどれほど幼くても、想像の世界ではセックスしたり、子どもを育てたり、仕事に成功したり、友に裏切られたり、老いたり、死んだことがあるものは、実生活でそれをほんとうに経験した人間と、原理的には同じ質量の(場合によっては、それを超える)経験知を獲得することが可能である。
能の『邯鄲』が教えるように、宿屋で粟粥が煮えているあいだのつかのまに廬生は夢の中で皇帝の地位にのぼりつめ、この世の栄華をきわめ、ついには仙薬によって千年の齢を得て、終わるとも思えぬ時間を過ごす。もう最後の方は時間がすさまじい勢いで経過して、「謡う夜もすがら。日はまた出でて、明らけくなりて。夜かと思へば、昼になり、昼かと思へば、月またさやけし。春の花咲けば、紅葉も色濃く。夏かと思へば、雪降りて、四季折々は目の前にて。春夏秋冬萬木千草も一日に花咲けり。面白や、不思議やな」というSF的狂躁となる。
はっと目が醒めた廬生は千年プラス五十年分の人生を生きた気になって、「夢の世ぞと悟り得て、望み叶へて、帰りけり」と故郷に戻ってしまうのである。
さて、このとき廬生はほんとうに悟りを得たと言えるのかどうか。
私は「得た」と思う。
夢の中で生きた時間は「主観的には」それだけの密度を持っているからである。
夢の中で経験した快楽は快楽であり、苦痛は苦痛である。
現に、今に伝わる古流武道の多くは「夢想神伝」という出自を語っている。
「夢の中で会得した術技は実際の戦場でも使うことができる」ということについての合意がひろく存在していなければ、こういう言葉遣いが定型になるはずがない。
現実というのは私たちが「現実」と名づけているよりもかなりひろい範囲を含んでいる。
私たちは生物学的実体としてはたかだか80年ほどの寿命と、手足を拡げたほどの可動域のうちしか持たないが、脳内現象的には、時空の制約をはずれて、桁外れの拡がりを「経験する」ことができる。
いま、この瞬間、日本にいる二人の人間のうち一方が、想像できるのはせいぜい前後四半期だけであり、他方が想像的に1000年前をリアルに経験できる人間(橋本治さんみたいな人)だとしたら、彼らを「同時代人」としてくくることはあまり合理的ではない。
「彼らは所詮同じ現実のうちにいるのだから、考えていることもだいたい同じである」と推論することは適切ではない。
同じ現実を見ていても、それを前後半年の射程の中で眺めている人間と、前後1000年の幅の中で見ている人間とでは、見えているものが全く違う。
その人が「主観的・想像的に経験したことの沖積土」の上にとりあえずの現実は置かれる。
「楚の国の羊飛山におはします尊き知識」に会って「これから人生どうしたらいいんでしょう」と訊ねようと思っていた廬生の等身大の願いは、邯鄲の夢という巨大な時空の拡がりの上に置かれたときに、その切実さを失った。
自分としてはけっこう切羽詰まっていたつもりでいたけれど、夢を見たあとは、「なんか、もう、どうでもいいや」になってしまったのである。
たぶんそのあとの廬生は故郷の村で、「ぼおっとしたおじさん」になったと思う。でもときどきあのおじさん妙に遠い目をして「栄華などというのはむなしいものだよ」とか呟くんだよね・・・と村の子どもたちに言われるような。

「祈り」の話をしていたのである。
祈りは、遠いものをめざす。
ふつうは現実の目の前には存在しないものをめざす。
私たちは死者を鎮魂するために祈り、未来に実現してほしいことを祈り、つねに今ここにはいない「遠くのもの」をめざして祈る。
祈りを向ける対象が「遠ければ遠いほど」、私たちが祈りを通じて経験するものは深まり、広がる。
多くの人が勘違いしているが、祈りの強度は「切実さ」によるのではない。
それがめざすものの「遠さ」によって祈りは強まり、祈る人間を強めるのである。
だから、おのれの幸福を願う祈りよりも、他者の幸福を願う祈りの方が強度が高く、明日の繁栄を願う祈りよりも、百年後の繁栄を願う祈りの方が強度が高いのである。
そこから如来と瞑想の話になるのだが、もう時間がないので、続きは本文で。