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賛美歌と国歌について

高橋源一郎さんが賛美歌と国旗と国歌についてツイッターで書いている。
私はほとんどの政治的論件について高橋さんと意見を同じくするけれど、この問題については、ちょっとだけ「う~ん」と唸ってしまったところがある。
もちろん、どのような政治的イシューについても「私は正しい、お前は間違っている」という語法では語らない、というのは高橋さんと私が共有する原則なので、以下に書くのは高橋さんの考え方への異議ではなく、同一の問題についての「別の見方もあるよ」というふうに読んで貰いたいと思う。
私は賛美歌と国旗国歌は同一の水準では論じられないと思う。
もちろん、高橋さんも同一の水準では論じていない。
賛美歌や校歌を歌うことについて違和感を覚えるというひとりの同僚の所論を紹介し、そこから高橋さん自身の国旗国歌論へ転じているのであって、その先生の所論に同意しているわけではない。
でも、私はこの先生の意見には簡単には呑み込むことのできないものを感じたので、それについて書きたいと思う。
繰り返し言うけれど、これは高橋さん自身の意見に対するものではなく、高橋さんが紹介して(その適否についてはコメントしていない)ある人の発言の引用に対するものである。
読む人はそのあたりを取り違えないでくださいね。

国旗国歌について、私は高橋さんと同意見である。
国旗国歌については、私たちはその制定の場に立ち会っていないし、自分の判断でその採否を決定することも許されていない。
だから、国旗国歌については、「私はそれを受け容れられない」という権利は全国民に認められるべきだと私は思っている。
高橋さんが書いている通り、アメリカ合衆国の最高裁は国旗損壊を市民の権利として認めた。
自己の政治的意見を表明する自由は国旗の象徴的威信より重いというアメリカ最高裁の判決はさすが「理念の上に作られた国」の首尾一貫性を感じさせる。
私もこのアメリカ最高裁のロジックを支持する。
それは、国旗国歌の良否について国民ひとりひとりの判断の自由を確保できるような国家だけが、その国旗国歌に対する真率な敬意の対象になりうるだろうと思うからである(私はご存じの通り、国民国家はできうるならば国民の自然な敬愛の情の対象であるほうがいいという立場である)。
強権を以て政治的象徴への敬礼を市民に強いるような社会では、しばしばそれは憎しみを込めた毀損の対象となる。旧ソ連のレーニン像もリビアのカダフィ大佐の肖像もその運命を免れることができなかった。
「敬意を表しないものを罰する」というやり方は恐怖を作り出すことはできるが、敬意そのものを醸成することはできない。

けれども、賛美歌は国歌とは成り立ちがずいぶん違うように思う。
国民国家というものは私たちの生まれる前からすでにあり、私たちは諾否の意思を問われぬままにその国民として登録された。
でも賛美歌は違う。
それを歌う場所には近づかない権利はノンクリスチャンの国民全員に認められている。
私は高橋さんと同じくミッションスクールの教員であり、私の大学でもさまざまな式典がキリスト教の礼拝の形式で行われている。
私は礼拝では賛美歌を歌う。
賛美歌どころか、教務部長として式では『マタイによる福音書』を拝読する役目を16回もやった。
本学の学院標語がそこに由来するからであり、私自身その学院標語をたいへん気に入っているからである(だから最終講義でも朗読した)。
私自身はキリスト教徒ではない。
ふつうの日本人の宗教的態度はそのまま私のうちに再現されている。
仏閣に詣でれば合掌し、神社では柏手を打ち、教会では十字架の前に跪いて、土地の聖人にお灯明を上げる、宗教的には無節操・無原則な人間である。
でも、それが悪いとは別に思っていない。
「祈る」という構えは人類に共通であり、「存在しないものからのメッセージを聴き取る、存在しないものへ訴える」ということが人間性を基礎づけていると考えているからである。
祈りの様態は集団ごとに、時代ごとにさまざまであるし、儀礼の中にはずいぶん奇矯に見えるものもある。けれど、私はそのどれについても固有の尊厳を認めたいと思っている。
先日、私は大谷大学に招かれて講演をした。
講演は開学の式典の一部だったので、私も礼拝に参加した。
読経や歌には加われなかったが(詞章を知らないから)、静かに瞑目して拝聴した。
歌詞を知っていれば、きっと唱和しただろうと思う。
この点について、私はわりとオープンマインドである。
しかし、ミッションスクールの式典で専任教員が賛美歌や校歌を歌うか歌わないかの決定はオープンマインドかどうかということとは原理的にはかかわりがない。
それは雇用契約の一部に含まれているからである。
どの大学でも就職希望の人には「建学の理念」に対する理解を確認する。
そして、どれほど研究業績があっても、「貴学の建学の理念には賛同できない」と明言する候補者は採択されない。
私はノン・クリスチャンだけれど、就職に際しては建学の理念とキリスト教教育への理解を誓約した。
それゆえ式典に参列し、賛美歌を歌い、会議の前には黙祷を求め、合気道の合宿でも食前の祈りを欠かさず、乞われればチャペルアワーで聖書についての奨励も語る。
もちろん、建学の精神への理解を約束しながら、何もしない教職員もいる。
社会契約について私なりに突き詰めて考えた結果、私はこのような態度を採択した。
市民の誓言というのはそれなりに重いものでなければならないと思ったからである。

私が着任したときの院長だった山口先生は「学院歌」の歌詞のうちに軍国主義的なものがあるという理由で、式典への出席を拒否していた。
先生は「その歌詞は本学の建学理念に違背する」という理由で拒否されたのである。
アメリカ国旗への損壊の罪を問わないという判決が、アメリカの建国理念に基づいてなされたように、ミッションスクールにおける儀礼への異議申し立ては、「ミッション」の名において行われるのが筋目だと私は思う。
本学の学院歌はその後山口先生の申し出に従って歌詞変更され、先生はふたたび式典に参列するようになった。

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2011年03月03日 10:34 に投稿されたエントリーのページです。

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