成惠卿さんとお話しする

2011-02-28 lundi

成惠卿(ソン・ヘギョン)さんと能楽についてのセッションの打ち合わせのあとに1時間ほどお話をした。
たいへん興味深い話だったので、忘れないうちにここに記すのである。
ソンさんはSeoul Women’s University の日本語日本文学学部の教授、韓国の女子学生たちに日本語と日本文学を講じている。
長く日本におられたので、流暢で響きのよい日本語をお話しになる。
最初の話題は南北統一について。
これまでも何度も書いてきたように、朝鮮半島の南北統一以外に北朝鮮のハードクラッシュを回避する手立てはないと私は思っている。
「一民族・一国家・二制度・二政府」を掲げた「高麗民主連邦共和国」構想は1980年に金日成が提唱した。
北に有利な制度であったので、このときは韓国側に拒絶されたが、その後の2000年の南北共同宣言ではあらためて連邦の可能性が言及されている。
「落としどころ」はこのへんにしかないだろうということは、韓国民の大半は無言のうちにでも理解していると私は思っているので、ソンさんにはそのことをお訊ねした。
ソンさんのお答えは意外なものであった。
南北の連邦型の統一(一国二制度)しかソリューションはないということはたぶん国民のほとんどがわかっているはずだが、それについて政府もメディアも積極的に議論する様子がない。
特に若い学生たちの間では、南北統一というような大ぶりの政治的イシューはほとんど論じられることがないそうである。
彼ら彼女らの喫緊の関心事は就活と英語力の向上。
韓国の若い諸君の英語熱はすごいそうである。
もちろん国策としての英語普及政策がある。
日本でもそうだが、大学では「英語で行う授業」の時数によって助成金配分が変わる。だから、どの大学でも必死で「英語で行う授業」数を増やしている。
大義名分は「留学生にも受けられる授業」だが、実際には「英語ができる学生」と「できない学生」を差別化するために開講されている。
これは私の個人的意見だが、韓国社会は「階層化」については心理的な抵抗がない。
むしろ、「わかりやすい指標」に基づく階層化を好む傾向にあるように思われる。
年収と学歴への「こだわり」において、韓国民はたぶん世界でも最高水準にある。
その点では、アメリカ発のグローバリズムと親和性が高い。
日本はそれに比べると階層化圧に対するつよい心理的抵抗が存在する。
平準化圧といってもいい。
「ぜんぶならして平らにしよう」という趨勢が、日本国民のDNAのうちには存在する。
こんなDNAを持っているのは、たぶん世界で日本人だけである。
それなりの人類学的必然性があって開発された遺伝形質だろうから、頭ごなしに「だから日本人はダメなんだ」と決めつけないほうがいいと私は思う。
前にも書いたが、NSP(National Story Project)の日本版を試みて、いちばん驚いたのは、寄せられた数百のエッセイの文体に「階層性・地域性」がまったく反映していなかったことである。
ポール・オースターのNSPはたしかに通読すると、そこからは「アメリカの声」が聴き取れる。
アラスカからテキサスまで、Redwood forest からGulf stream water までカウボーイからウォール街のストックブローカーまで、それぞれの集団固有の語法で語られた物語が聴き取れる。
語彙が違い、価値観が違い、美意識が違い、総じて、そこから立ち上ってくる空気の匂いが違う。
でも、日本版NSPを読んでも、そういう意味での「日本の多様性」はまったく感じられない。
みんな同じ言葉を使って、自分の経験を語っている。
語彙が同じ、リズムが同じ、比喩が同じ、改行のしかたが同じ、ユーモアのセンスも同じ・・・
これはある意味「すごいこと」である。
国民の使用する言語がこれほど斉一的である国は世界に他には存在しないであろう。
そもそも欧米の場合は、識字率が低いという前提がある。
文字がうまく読めない書けないという人たちが、多いところでは国民の20%に及ぶ。
それに加えて移民集団・社会階層ごとに使用言語が違う。
アメリカの場合、ヒスパニックはスペイン語を主に使う。ロサンゼルスなど都市の黒人の間にはエボニクスという固有の言語が存在するが、これは標準的な英語とは語彙も文法も音韻も違う。ヨーロッパでも上流階級とワーキングクラスでは発音も語彙も違う。
だからこそ、人が話すのを聴くと「同じ国の中に多様な人々が共生している」ことが実感されるのであるが、日本の場合は、それが感じられないのである。
みんなおんなじだから。
だが、繰り返し言うがこれは「すごいこと」である。
これを「個性がない」とか「画一化されている」と否定的にのみとらえることに私は反対である。
だって、「個性がない言語環境」を作り上げた社会が世界に日本しかないとしたら、それって「きわめて個性的な社会」だということだからである。
特殊性というのは(おおかたの生物種においてそうであるように)個体ではなく集団単位に発現するから意味がある。
「個性なき社会」という「きわだって個性的な社会」を形成した集団がいったい何を考えてそんなことをしたのか、これは腰を据えて分析する甲斐のある論件だと私は思う。
閑話休題。
韓国民は社会成員の差別化・階層化を嫌わないどころかむしろ好ましく思う傾向にあるのでは、という私の指摘にソンさんはややためらってから同意した。
そして、たしかにFTAにそれは見られると言われた。
FTAというのは、要するに「国際競争力のある産業分野」に資源を集中し、「国際競争力のない分野」は切り捨てるという「合理的」な資源分配のことである。
ヒュンダイ、サムスン、LGといった韓国のブランドは世界的な競争力を持っている。
そこに国家資源を集中する。
その代償に、競争力のない韓国の農業は切り捨てられる。
農民たちは必死の抵抗活動を行っているが、都市住民からのモラルサポートはほとんどないそうである。
力のあるものが生き残り、ないものは下層に釘づけにされる。
そういうグローバリズム的な「フェアネス」に対して、日本人は「そういうのって、なんかしらないけど、ちょっとまずいんじゃないの」とぐずぐず抵抗する心的傾向をもっているが、韓国民にはそういう抵抗が少ない。
それは「平準化」、言い換えれば「非階層化」を志向する集団心理の強弱の問題ではないかと思われる。
ソンさんからは、南北統一のロードマップの他に、この機会に日韓の知識人たちがもっと連携を深めて、「対中国」のブロックを作るべきだというご意見をうかがった。
これは私もおおすじでは同意見である。
日・韓そして台湾の三国による南北のラインは、東アジアで、中国とアメリカという二大強国に十分に拮抗しうる唯一の同盟関係である。
これをアメリカの構想する環太平洋的な中国封じ込め構想の中に位置づける限り、中国は全力で反対するだろうし、中国を盟主とする東アジア共同体構想にはアメリカが徹底的に反対するだろう。
ということは論理的には「中国にもアメリカにも加担しない」同盟関係以外には東アジアに「共同体的なもの」は構築しえないということである。
そういうリアルな選択について、隣国の人々の率直な意見を聴く機会があればと思う。
というわけでソン・ヘギョンさんには次に日本に来た機会に、「辺境ラジオ」か平川くんの番組にゲストで来ていただいて、そういう日本のメディアがしない話題をごりごり論じてみたいなあと思ったのである。
ソンさん、ぜひきてくださいね。
MBSの伊佐治さん、ラジオカフェの平川くんも、このプロジェクト、よろしくご検討ください。