1月26日から2月16日まで

2011-02-16 mercredi

長いことブログを更新していない。
「演説」のネタがなくなったわけではなくて、ブログの更新は時間が決まっていて、朝起きてから仕事に出かけるまでの隙間に書くのだが、その時間が取れなかったのである。
朝起きてそのまま仕事に出かけないと間に合わないか、朝起きてから郵便物に目をとしてメールに返信しているだけでタイムアップという日々が二週間ほど続いたせいである。
ブログの更新は私にとって「できごと」の意味をゆっくり時間をかけて吟味するたいせつなプロセスであるので、これができないとほんとうに人生が「薄っぺら」なものになったような気がしてくる。
備忘のため、前回の更新からあとの日々について記録しておく。
これは読者のためというより、自分自身のためである。
物忘れが激化している私のような老人は「あのとき何してたんだっけ・・・」という回顧的な問いにたいして壊滅的に答えることができない。だから、キーワードを打ち込めば、それが瞬時に検索できるブログほどありがたいものはないのだ。
1月26日
後期授業終了。午後から大阪支庁にて平松市長と会談。
これは「現代ビジネス」という講談社がやっているネット媒体で公開中。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2086
そのまま雨の中を家に戻る。
1月27日
毎日新聞から高野山大学への出講依頼。出ることにする。高野山という「かほどの霊場」に行ったことがないので、これはちょっと恥ずかしい。
神戸新聞取材。え・・・と何だったけな。すごく面白い話だった記憶はあるのだが。
それから夜遅くまで大学企画評価会議。
1月28日、29日
一般入試前期AB日程のため終日大学入試本部詰め。
1月30日
例会。みんなが麻雀やってる横でひとりこりこりと『新潮45』の原稿を書いていた。
1月31日
下川先生稽古、三宅先生の治療のあと、伊藤歯科にて6時間治療。
疲れる。
2月1日、2日
滝野にて杖道会合宿。楽しかった・・・
帰宅してそのまま大学で合否判定の打ち合わせ。
2月3日
朝10時から地鎮祭。新潮社のみなさん、週刊現代のみなさん、甲南合気会のみなさん、甲南麻雀連盟のみなさん、どうもありがとうございました。無事に鍬入れの儀も終了。
中島工務店のみなさん、棟梁、左官の井上さん、そして光嶋くんたちとお昼。
そのまま大学へ向かって合否判定会議。もどって下川先生の稽古。それから優秀論文査読。
2月4日
朝から合否判定会議。午後の判定教授会までのあいだに『One piece』解説の上巻分を送稿。15000字。そのあと合否判定教授会。引き続き科別教授会。それから愛蓮にて学科送別会。
同席のチャプレンの同志社大学応援團團長時代のさまざまな武勇伝に驚嘆する。
以後、中野“赤道”敬一先生と尊称することに決する。
2月5日
損傷したBMWをガレージに持ち込む。
久しぶりの(1月8日以来)合気道稽古。週刊現代取材付き(そのうちグラビアページに出るそうです)。
それから「ふるふる」にて大迫くんによる取材。
19時より三宮KOKUBUにて池上先生、吾朗さん、三宅先生ご一家とステーキディナー。池上先生から「赤いダウンベスト」を頂く。還暦のお祝いの由。退職のお祝いのために長野からおいでくださったのである。池上先生ありがとうございました。三宅先生、カルマ落としお手伝いさせていただきまして、ありがとうございました。
それからResetへ。同日、甲南合気会の「男子会」と「女子会」が別個に開催されており、それが合流して二次会をやっている。
なんか、意味わかんない。
意味わかんないまま注がれるワインをくいくい飲む。
2月6日
内田ゼミバリ島社員旅行。
ここからは日記の断片が残っているので、それを貼り付けておく。

一昨日からバリ島でバカンスを過ごしている。
ツイッターで逐次報告が上がっているだろうから、どんなふうになっているからはツイッターのフォロワーのみなさんはおおかたごぞんじであろう。
私の方はiPad もgalaxy もうまくアクセスができず、メールだけは読めるのだが、ツイッターはどちらも二日目の朝だけつながって、あとは接続不能。
インドネシアは電波の状態が不安定なようである。
というわけで、ブログにてバリ島旅行のご報告をする。
今年度末で、8年続いた大学院のゼミが終わるので、その聴講生のみなさんを中心にしたゼミ旅行を企画した。
「8年生」の渡邊仁さんが最年長(私と同い年)。
同じ第一期生の光安さん、ジュリー部部長はじめ聴講生の「おねいさま」たち、各代の青年たち。最年少は徳嶺姉妹(「可愛い〜。ぬいぐるみにして持ち帰りたいわ」とおねいさまの一人が言っておられました)
内田ゼミの卒業生はIT秘書室長のフジイ、福田さん、青子ちゃん、ムネイシ、タムラ君(お母さんといっしょ)、フルタ君(妹さんと一緒)、唯一の現役生ゴトウ君(お母さんと一緒)(敬称の有無は特に意味なし)。
甲南合気会からはキヨエさん。甲南麻雀連盟からはジロー先生、ゼミ二期生でもある、かんきち、サニー。
銀婚式を迎えるスーさんご夫妻、結婚20年目の守さんご夫妻は家庭サービスを兼ねてのご参加である。
田川ともちゃんは「先生枠」でご参加。
「バリ島でバカンスしたい人ならゼミ生の友人、知人、家族、誰でも参加OK」で募集したので、総勢33人のうち、関空に集まった時に、私が存じ上げない人が4人いた。
でも、今回のコンセプトは「社員旅行」なので、それでよいのである。
知らぬ同士が小皿叩いてチャンチキおけさなのである。
そういう一期一会的な集団性によって原子化したポストモダン社会を再びゆるやかに再統合したいと私は願っている。
甲南合気会も甲南麻雀連盟も極楽スキーの会もバリ島社員旅行も帰するところは一つである。
地域共同体の再構築という喫緊の政治課題のためとあらば、バリ島でバカンスを過ごすくらいの努力を私はいささかも惜しむものではない。
むろんハワイでバカンスでも、城崎温泉一泊旅行でも、私は老骨に鞭打って馳せ参じるであろう。
たいへん喜ばしいことに、今回のバリ島社員旅行によってこれまで個別に活動して来た各組織体は緊密な連携を形成するに至った。
井上清恵さんと藤井洋子さんが並んで旧知の友人のように談笑しているのを見ると、私は軽いめまいに似た感動を覚えるのである。
藤井さんは前回のバリ島旅行にゼミ生オークラ君の「お母さんとの友人」という資格で参加されてはじめて登場されたのだ、その後、大学院ゼミを拠点に共同体横断的「ジュリー部」ネットワークを形成して、一大勢力を築き上げたことは周知の通りである。
一方のキヨエさんは巨大組織甲南合気会を束ねる辣腕マネージャー。この二人が談笑しているのを見ると、ふっと『仁義なき戦い 代理戦争』で松永(成田三樹夫)と武田(小林旭)が村岡組の跡目相続について話している様子を私はつい連想してしまうのである。
バリ島社員旅行もはや三日目となり、9名は今日の夜の便で帰国する。

バリ島、4日目。
9名帰って、残りは25名。さすがにみなさん観光疲れしたらしくて、今日は朝から海辺のテラスでのんびりしている。
朝ご飯を食べてから、私も「おねいさま」たちと2時間ゆったりおしゃべり。
この手のガールズトークは私のもっとも好むところである。
テラスを行き交う各国観光客の観察から始まり、なぜ夫婦ものの観光客の妻たちはあのように定形的に不機嫌な表情をするのかについて、中国、ロシアのニューリッチな方々、およびアラブのスーパーリッチな方々の消費行動とその審美的な適否について、東京都知事と大阪府知事の政治的パフォーマンスの病的傾向について、ヨーロッパの階層社会の構造とそこで選出される統治者たちのタイプの共通性について、会衆派教会の構造とKCの教授会の成り立ちについて、それぞれの母校の近年の経営方針について、などなど話頭は転々として奇を究めて、摘要しがたいのである。
メールにはあちこちから仕事のメールが数十通来ている。
バカンス先にまでじゃんじゃん仕事の打ち合わせや依頼が届くということは、バカンスということの本質に違うのではないかという気もしないではないのだが、こんなところまでiPad を持参して、仕事をしないと約束が果たせないような引き受け方をした本人が悪いのであるから恨みごとを言う筋合いではないのである。
今日はこれからOnepiece 論の下巻分を書かねばならない。
それを書き上げたら、プールサイドでお昼寝である。
さ、仕事しよ。

というところで現地で書いた日記はおしまい。
やっぱりブログ日記はリアルタイムで書かないと「勢い」というものが出ないですね。

2月11日
常夏のバリ島から寒風吹きすさぶ関空へ。温度差30度。
阪神高速が積雪で通行止めのため、電車で帰る。
機内で足の中指が痛み出す。
げ、痛風の発作ではないか。
帰宅して、荷物を片付けて、大学へ。地方入試監督者の送り出し。
家に戻って豚汁を作成。味噌味のものと白いご飯が猛烈に食べたい。
飽食後、深夜胃痙攣の発作。
2月12日
一般入試前期CD日程。
朝から大学入試本部詰め。
指の痛み、胃の痛みに加えて風邪の発熱。
本学での入試が終わったところで、地方入試部隊の帰着を待たずに帰宅させていただく。
帰ってベッドへ。改源のんで、13時間眠る。
2月13日
下川正謡会の新年会。
早起きして、着物の支度。謡と舞の稽古を少しだけする。
まだふらふらするが、熱は下がっており、指の痛みと胃の痛みはだいぶ軽減している。
下川先生のお宅へ。
ドクター佐藤、飯田先生、ウッキー、大西さん、東川さんご夫妻など、「新世代」の進出が著しい。
舞囃子『蘆刈』、仕舞『笠之段』素謡『安宅』のほか、『卒塔婆小町』、『木賊』の地謡、仕舞の地謡がついてほぼ出ずっぱり。
終わって、冷たいビールを飲んで、ほっとする。
胃の痛みはどうもこの会の稽古が十分に出来ていなかったことについてのストレスが原因だったようである。
弱気なオレ。
2月14日
三宅先生のところでぐりぐりして頂く。
雪が降りだす。
大学でダイヤモンドの取材があったのだが、雪で下山できそうもなかったので、取材クルーを拉致して、取材場所を自宅に変更。
お題は「内定もらった学生たちの入社まで半年間の心の準備」
employable という言葉がある。「雇用できる」「雇用するだけの価値がある」という形容詞である。
「いかにして雇用するだけの価値のある労働者になるか」
そういう問題設定である。
当然、私は頭から湯気を吹きあげることになる。
何を手抜きなことを言っているのか。
企業は社会教育のための機関である。
学校を出た若者たちを受け容れて、成熟した市民への育て上げることが企業に託された重大な社会的使命である。
そういう「教育する責任」を感じている雇用者からはそのような言葉は出てこないはずである。
「即戦力」といい「コミュニケーション能力」といい、どうして日本の企業人は「自分の都合」しか言わないのか。
荒削りの、未加工の素材を受け容れて、それをゆっくり時間をかけて磨き上げるというのがほんらい「大人の組織」が通過儀礼を終えて参入してきた新メンバーを迎えるときの構えではないのか。
それをやる気がない。
もう「できあがった既製品」を買いたいという理由として企業側は「国際競争力が落ちているので、若い人を育てているだけの余裕がないのだ」という言い訳を口にする。
こっちだって切羽詰まってるんです、と。
でも、私はそれは副次的な理由にすぎないと思う。
最大の理由は「育てる力」が雇用者側にない、ということである。
「育てる力」がないのは、採用する側も「子ども」だからである。
「子ども」に「子ども」は育てられない。
シンプルな話である。
刻下の雇用危機の本質はそこにある。
日本のエスタブリッシュメントの急速な「幼児化」こそが日本社会の制度的劣化の実相なのである。
というような話をダイヤモンドのみなさんにする。
読者は「幼児化している」と私に名指されている日本の企業人のみなさんである。
彼らはどれほどこれを読んで怒り狂うことであろうか。
でも、ほんとなんだから仕方がない。
2月15日
午後から大学院の修士論文の口頭試問。
広中るみなさんの論文をめぐって、日本史の真栄平先生とふたりで一時間ほどあれこれと議論をする。
論題は「日本の産業界はなぜ今頃になって『リベラルアーツの重要性』などということを言い出したのか?」という話。
ご案内のとおり、1991年の大学設置基準の大綱化によって、大学の教養教育は解体された。
それは「一般教養などというものは不要である。18歳から4年間びっちり専門教育した方が、使いでのある新入社員ができる」という産業界からの強い要請があったからである。
そうやって10年間専門に特化した大学教育をしたら、当然ながら、卒業生は「使えない新入社員」ばかりになってしまった。
自分の専門のことだけは詳しいが、それ以外のことには何の興味も示さない若者が量産されたからである。
彼らは同一の価値観を共有し、同一の語法で語る「内輪のサークル」でかたまることを好み、年齢や立場や職種の違う人々とのコミュニケーションにぜんぜん興味を示さなかった。
でも、「そういう学生が欲しい」と産業界の方が言ったのだから、いまさら「困る」と言っても私は聴く耳持たない。
18歳から専門特化しても、いいことなんかないぞ。それより文学とか哲学をやったほうがいいって、と私は声高に呼びかけていたのだが、だあれも聴いてくれなかったのである。
いまさら経団連や日経連が「やはり大学では文学や哲学を勉強して、幅広い視野をみにつけていただきたい」などと言い出しても、私は返す言葉を持たない。
それにここに透けて見えるのは、やはり「高いスペックの既製品が欲しい」という切実な欲求であり、未加工の素材を受け容れて、それを育て上げてゆくところで企業文化の底力の差が出る、という考え方は見られない。
現代の若者を取り巻く劣悪な雇用状況の原因はここにある。
非力で無能な若者たちを育てるのは社会全体の責任だという考え方がここにはない。
若者の社会的未成熟は自己責任であり、それゆえ就活でさんざん苦しまなければならないという一見合理的な発想の根本にあるのは、企業の社会的責任の放棄である。
企業の社会的責任の放棄は雇用者の側の「社会的未成熟」の結果である。
あ、修論審査でもつい昨日と同じ話をしてしまった・・・
でも、修論はたいへん面白かったです。
そのあと16時から18時半まで学部長会。
たいへん眠い。
19時から光嶋くんと設計の打ち合わせ。
打ち合わせのあと、阪神御影のペルシエにて奥さんもまじえて三人で晩御飯。
とっても美味しくて、copieux な晩御飯だったので、三人とも「ぷふ~」状態となる。
というところでやっと2月16日までたどりつきました。
やれやれ。