アブラハムと顔の経験

2011-01-25 mardi

神戸女学院大学における最後の奨励のための聖句に私が選んだのは『創世記』12:1である。
「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。』」
これは信仰の起源を示す聖句だと私は思う。
信仰はこの言葉に聴き従うものから始まる。
前に書いたとおり、神は「神の言葉に聴き従うもの」の出現を俟ってはじめて神として存在し始める。
もちろん神はそれ以前から存在するのであるけれど、誰もそれを「神」とは呼ばなかったのである。
「私は被造物である」と名乗るものが出現するまでは、「造物主」という概念そのものが存在しない。
神の言葉に聴き従うものを持ってはじめて神は神になる。
神は神の言葉に聴き従うものを必要とする。
全知全能の存在である神は、他には何も必要とせず、ただ「神の言葉に聴き従うもの」だけを必要とするのである。
それゆえ主はアブラムに呼びかける。
「父の家」というのは、私たちがそこに育ち、根を下ろしている「世界」のことである。
私たちはその世界に固有の価値観に基づいて正邪理非を判断し、その世界の言語で語っている。
だから、「その世界を離れよ」というメッセージは、原理的には「意味不明」の言葉であった。
英語を聴いたことのない日本語話者がいきなり英語で話しかけられた状況に近い。
何を言っているのか、わからない。
でも、わかることがある。
それは、「それは私宛てのメッセージだ」ということである。
そして、発信者のようすから、「そのメッセージを私が可及的すみやかに理解する必要性が切迫している」ということが察せられるのである。
「主の言葉」がはじめて預言者に臨むときの、それが基本的な状況である。
主が何を言おうとしているのかは、わからない。
でも、それが私宛てのパーソナルなメッセージであり、ほかならぬこの私が「そのメッセージを読解できる人間」になることを先方は熱烈に望んでいるということは、わかる。
私たちはたとえメッセージのコンテンツが理解できなくても、それが自分宛てであるかどうかは過たず判定することができる。
そして、私たちはそれが「自分宛て」であると確信されたメッセージについてはおのれの全力をあげて理解しようとする。
「なぜ全力をあげるのか」と問われても、答えようがない。
ただ、人間というのは、「そういうもの」だとしか言いようがない。
まさに私たちはそのようにして母語を習得したからである。
私たちは嬰児のとき、母語をひとことも理解しない状態から言語の習得を始めた。
言語という概念さえもたない状態から言語の習得を始めることができるのは、嬰児でも空気の波動が「ほかならぬ自分にまっすぐ触れている」ということだけは感知できるからである。
言語習得という奇跡は、人間がメッセージのコンテンツをまったく理解できないところから出発して、メッセージの統辞構造や語彙や音韻や修辞についての深い理解に達することができるという平凡な事実に存する。
この力動的な言語習得のプロセスを駆動した「最初の一撃」は「この波動は私に向けられている」という受信者の側の絶対的な確信である。
主の言葉が預言者に臨むときの構造とこれは同一である。
アブラムに主の言葉が臨んだ時、アブラムは主が何を言っているのか、ぜんぜんわからなかった。
おそらくそれは雷鳴や地鳴や暴風に類する「非分節的・無文脈的」な空気の波動として到来したはずである。
そのようにしか聴こえなかったはずである。
けれども、アブラムはそれを「自分宛てのメッセージ」だと聴いた。そして、その「雷鳴」を「人間の言葉」として解釈できるまで霊的に成熟することを自らに課した。
その瞬間に、アブラムはアブラハムになり、一神教信仰の歴史が始まった。
「自分宛ての『意味不明のメッセージ』の意味を理解できる人間になること」を遠い目標に措定して、アブラハムは以後の霊的旅程を望見したのである。
アブラハムの夢はそのまま現代に受け継がれている。
信仰においても、学びにおいても、それを起動させる「最初の一撃」は同じものである。
それは「このメッセージは私宛てである」という確信である。
「聴け、イスラエルよ」(シェマア・イスラエル)から預言者の言葉は始まる。
ここでいう「イスラエル」はその言葉が発される前から存在している民族集団の名ではない。
その預言者の叫びを「私宛ての言葉だ」と思いなしたもの、それが「イスラエル」なのである。
私とは「『私宛て』のメッセージを聴き取ったもの」である。
そのように順逆の狂った仕方で主体は構造化されているのである。
ここまでの理路はそれほどむずかしいものではない。
問題はどのようにして私たちは「私宛てのメッセージ」をそうではないメッセージと識別しているのか、ということである。
なぜ、それが私たちにはわかるのか。
なぜ、「この人は私に向かって話しかけている」ということがわかるのか。
なぜか知らないけれど、わかる。
レヴィナスが「顔」(visage)という語で言おうとしていたのは、おそらくそのような先駆的な確信が成立する劇的な事況のことである。
レヴィナスはこう書いている。
「語ること、それは他者を認知すると同時に、他者におのれを認知してもらうことである。他者は単に知られるだけでなく、挨拶される(salué)。他者は単に名指されるのみならず、祈願される。文法用語を使って言えば、他者は主格ではなく、呼格において出現するのである。私は単に他者が私にとって何であるかを考えるだけではなく、また同時に、それより先に、他者にとって私が何ものであるのかを考える。他者を『これ』とか『あれ』とか名づけて、一つの概念をあてはめること、それはすでに他者に訴えかけることである。私は知る(connais)だけではない、私はかかわりのうちに入るのである。パロールが含意するこの交通(commerce) こそはまさしく暴力なき行動である。動作主は、行動するまさにその瞬間に、いかなる支配もいかなる主権も断念して、他者からの返答を待つという仕方で、他者の行動におのれの身をさらしている。語りかけることと聞くことは同じ一つのことであり、継起するものではない。語りかけることはそのようにして等格の道徳的関係を創出し、その結果、正義を知る。奴隷に向かって語りかけているときでさえ、ひとは等格者に対して語りかけているからである。ひとが言わんとすること、伝達されるその内容は、他者が認識されるより先にまず対話の相手として重きをなしているような、顔と顔を向き合わせた(face à face)関係があってはじめて聴取可能になるのである。ひとはまなざしを見つめる。まなざしを見つめるとは、みずからを放棄せず、みずからを委ねず、見つめ返してくる(viser)ものを見つめることである。顔を見つめる=顔とかかわる(regarder le visage)とはこのことである。」(『困難な自由』)
私はこの文章をこれまで何十回となく引用してきた。
そのときつねにこの「私」(je)とか「ひと」(on)というのを人間一般のことだと思ってきた。
けれども、まったく違う考え方もあるのではないか。
もしかすると、「私」とは「主」であり、「他者」とは被造物たる「人間」のこととしても、この文章は読むことができるのではないか。
「主」が「私は」と語っていると想像して(想像しにくいであろうが)、もう一度今引用した箇所をゆっくり読み直して欲しい。
そのときに人間が主からの意味不明のメッセージを「これは私に向かって語りかけられた言葉だ」と確信できたのはなぜかがわかるはずである。
「ひとが言わんとすること、伝達されるその内容は、他者が認識されるより先にまず対話の相手として重きをなしているような、顔と顔を向き合わせた(face à face)関係があってはじめて聴取可能になるのである。」
レヴィナスはそう書いている。
私たちが「これは私宛てのメッセージだ」という確信を持つ根拠は実は一つしかないのである。
それは「受信者の知性に対する敬意」である。
驚くべきことだが、今の文脈で言うならば、それは「主の、彼の被造物である人間に対する敬意」なのである。
私たちは自分に対して「法外な敬意を先払いしてくれるようなメッセージ」に対しては激しく反応する。
そのコンテンツがたとえ理解不能であろうとも、私たちは「自分に向けられた敬意」を決して見落とさない。
人間は自分に向けられた愛情を見落とすことはある。
けれども、敬意を見落とすことはない。
そういうものなのである。
主が人間にきわめてたいせつなメッセージを伝えようと望んだとき、主は「人間が決して聴き落とすことのないパッケージ」にくるんでそれを差し出した(全能の神はなさることにはまことに遺漏がない)。
主は人間を「主と知性において、権利上等格のもの」と擬制することによって、過たずそのメッセージを宛て先に送り届けたのである。
そのことを通じて主は「神に聴き従う」人間をこの世に作り出し、それによって「神」という概念を世界内部的に受肉させたのである。
主は理解も共感も絶した他者にもなお届く言葉を語るためにはどのように語るべきかについて、その範例を自ら示されたのである。
私は今学び舎のうちの祈りの場所であるソール・チャペルでこの話をしている。
私の願いは私の言葉が過たずみなさんに届くことである。
そのために何が必要であるかを、私は今みなさんの前に、身を以てお示ししたと思う。
それはこの場にいるすべてのみなさんの知性に対する私からの全幅の信頼である。
というような話をするはずだったのだが、持ち時間が8分しかなかったために短くなってしまったので、補綴のためにここに書き記すのである。