最終講義と、パーティのお礼

2011-01-23 dimanche

1月22日最終講義。
21年間勤めた神戸女学院大学へのお別れと、感謝のご挨拶をする。
別に「講義」というほど肩肘張ったものではないのだけれど、それを聴くために、わざわざ遠方から岡田山まで来てくださっている人がいるので、ある程度はまとまりのある話をしなければいけない。
愛神愛隣、リベラルアーツ、ヴォーリズの学舎
という三題噺をすることに前夜明け方ベッドの中で決める。
リベラルアーツとヴォーリズについては、これまでも何度も書いてきたことなので、もうここでは繰り返さない(いちばん最近のヴォーリズ論は今月号の『新潮45』に「死者からの贈与」のみごとな事例として取り上げたので、お時間のあるかたはどうぞご覧ください)。
愛神愛隣について。
「愛神愛隣」は本学の学院標語であり、出典はマタイによる福音書の22章34節から40節。
律法の中でどの掟がもっともたいせつかというパリサイ派の律法学者の問いにイエスはこう答える。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これがもっとも重要な第一の掟である。第二の掟もこれと同じように重要である。隣人をあなた自身のように愛しなさい。律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。」
私は教務部長として、入学式卒業式で4年間16回、この箇所を、この講堂で、朗読した。
聖句というのは声に出して読むものである。
声に出すことで、聖句はつよい物質性を帯びるようになる。
この聖句はイエスのオリジナルではなく、古代からラビたちに口伝されてきた、ユダヤ教の起源に遡る教えだと飯先生に教えていただいたことがある。レヴィナス老師もこの聖句をユダヤ教の本質に触れるものとして、詳細な注解を加えている。
おそらく私たちが「宗教」という名で総称している心的態度のもっとも本質的なものがこの聖句には託されている。
「超越的な境位」と「具体的な境位」を結びつけるのは「ここにいる、他ならぬこの私である」と名乗ること。
神のいます超越的な世界と、隣人のいる現実的な世界は、ここにいる、この私が、その生身を捧げることによってのみ架橋される。
超越的境位は、それだけで自存することができない。
「信じるものをもたない神」、「被造物をもたない造物主」というのは悖理である。
神は世界を持たなければならない。
この不完全な世界において、不完全な被造物たちが、それぞれの有限な資源をかき集めて、神のかたちをかたどり、神の摂理を忖度し、神の秩序をこの地上に実現しようと試みるときはじめて、神は欠性的に開示される。
レヴィナスはホロコーストの後に、民族の最大の災厄のときにも天上的な介入を行わないような神は信じるに値しないという理由から信仰を捨てようとした西欧のユダヤ人たちに向かってこう告げた。
あなたがたはこれまでどのような神をその頭上に戴いていたのか。
それは善行をしたものには報奨を、悪行をなしたものには懲罰を与える、そのような単純な神だったのか。
だとすれば、それは幼児の神である。
だが、私たちがこうむった災厄は神のなしたものではない。
人間が人間に対してなしたことである。
人間が人間に対して犯した罪を神が代わって贖うことはできない。
人間が人間に対して犯した罪は人間しか贖うことができない。
神がもしその威徳にふさわしいものであるなら、神は必ずや「神抜きで、独力で、地上に公正と平安をもたらすだけの能力を備えた被造物」を創造されたはずである。
神の支援がなければ何もできず、ただ暴力と不正のうちで立ち尽くすようなものを神が創造されるはずがない。
人間が人間に対して犯した不正は、人間が独力で、神の支援抜きで正さなければならない。
人間が自分ひとりの力で、地上に平和で公正な社会を実現したときにはじめて私たちはこう宣言することができる。
「世界を創造したのは神である。なぜならば神が手ずから創造すべき世界を被造物である私たちが独力で作り出したからである。神がなすべき仕事をみずからの責務として果たしうるような被造物が存在するという事実以上に神の威徳と全能を証明する事実があろうか。」
「唯一なる神に至る道には神なき宿駅がある」(Difficile Liberté, Albin Michel, p.203)
神を信じるものだけが、神の不在に耐えることができる。
成人の信仰とはそのようなものである。
レヴィナスはそう述べて、ヨーロッパ・ユダヤ人社会を崩落寸前の崖っぷちで食い止め、タルムードの学習と戒律遵守を喜びとする伝統的で静かな信仰の生活のうちにユダヤ人たちを押し戻した。
私は老師のその教えと同じ起源をもつ聖句としてこの「愛神愛隣」の言葉を受け止めている。
それは超越的な世界とこの現実の世界を媒介するのは、「公正で慈愛に満ちた世界を構築する仕事を、まず自分の足元から始めるひとりの生活者である」ということである。
私たちは私たちの手持ちの資源しか差し出すことができない。
そのささやかな資源を以て「世界をすみごこちのよいものにするための人類史的な作業」のどの部分を自分が担いうるかを吟味すること。
そのようなしかたで自分の有限な知恵と力を工夫して使うことのできる人たちを世に送り出すこと、それが遠い中東の荒野に発祥した信仰が長い歳月と遠い距離を踏破して、この列島に着床してかたちをとったこの学舎の聖史的使命ではないかと私は思うのである。
私は39歳からの21年間、レヴィナスの読書と神戸女学院の宗教的エートスに深く浸かることによって、気づかぬうちに、ユダヤ=キリスト教的な倫理を私自身の「日本的身体」の構造となじませる道筋をずっと工夫してきたようである。
退職の日を間近にして、昨日ようやくそのことを知った。
私がこの大学に負っているものは、たぶん私が想像しているよりずっと多い。
そのKCからの「贈り物」のリストはこれから(あぶり出しの文字のように)、時間をかけてゆっくりと言葉になってゆくのだろうと思う。


最終講義、茶話会、退職記念の歓送迎会(不思議なネーミング)においでくださった方々、準備のためにお骨折りくださった方々、遠くから応援してくださった方々に、心からお礼を申し上げます。
飯謙学長、山本義和先生、松田高志先生、川合真一郎先生、茂洋先生はじめKCの同僚の皆様、日本各地から参集してくれた内田ゼミの歴代の卒業生諸君と記念品贈呈して泣かせてくれた現役のゼミ生たち。東京から来てくださった高橋源一郎さん、鈴木晶さん、関川夏央さん、中沢新一さん、茂木健一郎さん、安田登さん、鶴澤寛也さん、そして平松邦夫市長。何度も登壇させてしまった平川くん、10分くらい独演会しちゃった画伯、パッチ姿も凛々しい江さん。10年ぶりの「ウンパンマン」のニューヴァージョン「となりのタツル」を見せてくれたヤベッチ、クー、おいちゃん、かなぴょん、エグッチ。準備のために長期間奔走してくれたホリノさん、ドクター佐藤、ゑびす屋谷口さん。ナレーションしてくださった西靖さん。茶話会仕切ってくれたウッキー。最終講義をツイートしてくれた前田さん、藤井さん。お菓子と写真担当の宇都くん、あらゆる雑用で走り回ってくれた黒田くん、ヨハンナ、サーシャ&カナコと合気道部と杖道会のみなさん。「祭り」を笑い声で盛り上げてくれた甲南合気会と甲南麻雀連盟(本部ならびにスーさん率いる浜松支部)の諸君とフルメーク・ドレスアップの司会のサキちゃん。そして、最初から最後まであらゆる場所で大活躍だった大迫力くん。
まだまだとても名前を書ききれませんけれど、ほんとうに、ほんとうに、みんな、どうもありがとうございました。
(追記:と書いてアップロードしてから、なんだか大事な人たちのことを忘れていたような気がしていたが、夕方お風呂に入っているうちに思い出した。私はお客さまたちのうち、すべての編集者の名前と、民主党のおふたりの議員の名前を書き漏らしていたのである。
無意識のこととはいいながら、「仕事の話を持ってきてくださる方々」のことを忘れようとする抑圧の強さにいまさらながら驚嘆するのである。(なにしろさっきまで足立さんと光嶋くんと担当の前田さんと『芸術新潮』の打ち合わせしてたんだから)
というわけで、いまさら手遅れですけれど、その足立さん、三重さん、野木さん、加藤さん、岡本さん、吉崎さん、井之上さん、安藤さん、白石さん、鳥居さん、杉本さん、大村さん、大波さん、浅井さん、古谷さん、川口さん、ヤマちゃん、大室さん、平林さん、三島くん、遠路はるばるありがとうございました。
それからお忙しいなかお越しいただきました松井孝治さんと細野豪志さんにもお礼申し上げます。