特殊な能力について

2011-01-20 jeudi

京大の仏文の吉川一義先生にお招きいただいて、京大で講演をする。
吉川先生は東京都立大時代の同僚である。
同僚といっても、こちらは「お茶くみ、コピー取り」の助手であり、先生はプルースト研究者としてすでに一家をなしていたわけで、同列には論じがたいのであるが、まことにフレンドリーな先輩で、ご一緒したのは先生が東京女子大から赴任され、私が神戸女学院大学に去るまでの、二年間だけだったが、たいへん愉快な時間をともに過ごさせていただいた。
先生はフランス文学研究者としては例外的に「社会的常識のある方」である(という書き方をして仏文学者二千人をいきなり怒らせるというあたりに私の「社会的常識のなさ」は露呈しているので、そんな人間から「社会的常識のある方」と言われても「ウチダさんのその判断の蓋然性は誰が担保するのさ」と吉川先生は曇った顔をされるであろうが)。
世界的なレベルの学者でありながら、温厚で配慮の行き届いた方なのでいまは仏文学会の会長をされているそうである。
私はその仏文学会があまりにつまらないのでオサラバしたという話を昨日の講演のマクラに振ったのであるが、まさか当の吉川先生が学会長だとは知らなかった。
「それにしても社会的常識のないやつだな」と先生はさぞやがっくりされたと思う。
申し訳ない。
講演のタイトルは「日本の人文科学に明日はあるか(あるといいけど)」。
これまでも何度も書いたことだが、自然科学の先端的な研究に従事している学者たちとお話するのはほんとうに面白い。
この数年のあいだに話をきいてどきどきした学者はほとんど全員「理系の人」である。
養老孟司、名越康文、池上六朗、福岡伸一、茂木健一郎、三砂ちづる、春日武彦、池谷裕二、仲野徹、岩田健太郎・・・
文系の学者で「話を聴いているうちに頬が紅潮するほど知的に高揚した」という人は、残念ながら一人もいない。
なぜか。
理由はいろいろあると思う。
一つは、理系の先端研究者は「なまもの」を扱っているということ。
養老先生は以前「情報」と「情報化」の違いについて教えてくださったことがある。
「情報」というのはすでにパッケージされ、その意味や有用性が周知されているもののこと。
「情報化」とは、「なまの現実」を切り出し、かたちを整えて、「情報」にパックする作業のことである。
文系の学者たちは、情報の操作には長けているが、「なまの現実」を情報化するという作業にはあまり関心がないように見える。
「なまの現実」というのは、端的に言えば、「生き死ににかかわること」である。
例えば、医療の現場では、そこに疾病や傷害という「なまの現実」がある。
それを手持ちの医療資源を使い回して「どうにかする」しかない。
「こんな病気は存在するはずがない」とか「こんな病気の治療法は学校では習わなかった」という理由で診療を拒むことは許されない。
とにかく何かしなければいけない。
池上六朗先生は患者が来たら「何かする」のが治療者である、とおっしゃったことがある。
「正しい治療」をするのではない。
「何かする」のである。
治療は「結果オーライ」だからである。
人間の身体のような「なまもの」は「正しい治療」をすればさくさくと治癒するというものではない。
「正しくない治療」をしても、治療者が確信をもって行い、患者がその効果を信じていれば、身体的不調が治癒することがある。
新薬の認可がなかなか下りないのは、「画期的な新薬」を投与したグループと「これは画期的な新薬です」と言って「偽薬(プラシーボ)」を投与したグループのどちらの患者も治ってしまうので、薬効のエビデンスが得られないからである。
その点では、現代人に呪術医療を侮る資格はないのである。
池上先生は大学病院が匙を投げた難病患者を受け容れたときに、することを思いつかなかったので、とりあえず「九字を切った」ことがあるそうである。
「臨兵闘者皆陣列在前」と唱えて空中で縦横に指を切ったら、患者は治ってしまった。
池上先生は患者が来たらいつも九字を切るわけではない。
そのときは「たまたま」九字を切りたい気分になったそうである。
治療者の資質はたぶんここに現れる。
「なまもの」相手のときは、マニュアルもガイドラインもない。
「なまもの相手」というのは、要するに「こういう場合にはこうすればいいという先行事例がない」ということだからである。
どうしていいかわからない。
どうしていいかわからないときにでも、「とりあえず『これ』をしてみよう」とふっと思いつく人がいる。
そういう人だけが「なまもの相手」の現場に踏みとどまることができる。
どうしていいかわからないときにも、どうしていいかわかる。
それが「現場の人」の唯一の条件だと私は思う。
私が知り合った「理系の人たち」はどなたもそういう「なまの現場」に立っている方たちである。
現場にとどまり続けるためには「わからないはずなのだが、なんか、わかる」という特殊な能力が必要である。
そのことを先端研究にいる人たちはみんな熟知している。
だから、その「特殊な能力」をどうやって高いレベルに維持するか、そのことに腐心する。
先に名前を挙げた方たちのふるまいをみていると共通点がある。
それは「やりたくないことは、やらない」ということである。
これは領域を問わず、先端的な研究者全員に共通している。
やりたくないことを我慢してやっていると、「わからないはずのことが、わかる」というその特殊な能力が劣化するからである。
どうしてだか知らないけれど、そうなのである。
だから、自分に負託された使命が切迫している人ほど「特殊能力の維持」のために、さまざまなパーソナルな工夫を凝らすようになる。
池上先生が水に潜ったり、三砂先生が着物を着たり、池谷さんがワインとクラシックにこだわったり、茂木さんが旅したりするのは、それぞれのしかたで「そうすると、自分の特殊な能力が上がる」ことがわかっているからである。
別に趣味でなさっているわけではないのである。
「やりたくないことは、やらない」という厳しい自律のうちにある人たちは、だから総じていつも上機嫌である。
上機嫌であることが知性のアクティヴィティを(「おめざ」のあんこものと同じくらいに)向上させることを彼らは知っているから、「決然として上機嫌」なのである。
オープンマインドとハイ・スピリット。
これが知的にアクティヴな人の条件である。
そういう人たちが「ダマ」になっている学術領域は「生きがいい」ところである。
不機嫌な人や、威圧的な人や、心の狭い人や、臆病な人や、卑屈な人がマジョリティを占めているような学術領域は「先がない」。
現在のその学術領域に配分されている予算や、大学教員のポスト数や、メディアへの出場頻度や、政府委員の数や、受勲者リストの長さなどとは何の関係もなく、「先がない」のである。
ある学術領域が「生きている」かどうかは、そのフロントランナーたちが「なまもの」を扱っているかどうかで決まる。
第一線に立つ人たちが、「それをどう扱っていいか、まだ誰も知らない素材」を扱っているかどうかで決まる。
私はそんなふうに考えている。
文系の、それも文学研究における「なまもの」とは何であろうか。
私はそれは畢竟するところ「人間の知性」だと思う。
文学研究の対象は人間の知性である。
人間はどのように推論するのか、どのように想像するのか、どのように欲望するのか、どのように臆断に囚われるのか・・・それを研究するのが人文科学の仕事ではないかと私は思うのである。
研究の「素材」はなによりもまず自分自身である。
自分自身の知性の好不調や、妄想や欲望の亢進と停滞、想像の逸脱、推論の逸脱・・・それはどのような法則に基づいて生起し、どのように構造化されているか。
知性によって現に活動している知性そのものを遡及的に解明する。
この不可能なアクロバシーを託されていることこそが人文科学の栄光ではないのであろうか。
昨日の講演のあとの質疑応答では「文学は大学教育に必要なのでしょうか?」という質問があった(質問したのは経済学部の学生。質問には「文学なんか不要でしょ?」というニュアンスが込められていた)。
とてもよい質問だと私は思った。
「文学はなんのためにあるのか?」
これは文学研究者がまっさきに考えなければならない問いである。
もちろん「正解」があるわけではない。
けれども、文学研究をする人間であれば、志したときから、死ぬまで考え続けなければならない問いである。
「文学はいかにして可能か?」
思えば、私はモーリス・ブランショのこのエッセイを精読するところから文学研究を始めたのだった。
「文学はいかにして可能か?」
この問いをつねに胸元に突き付けられた匕首のように受け止めること。
それが文学研究者のあるいは唯一の条件ではないのであろうか。