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なぜ日本に米軍基地があるのか?

京都弁護士会というところに招かれて「憲法と人権を考える」会にて、日本外交について講演をする。
なぜ、私のような門外漢に外交を語らせるのであろうか。
だって、ほんとに門外漢なんだよ。
外国で暮らしたこともないし、外国政府高官にパイプがあるわけでもないし、外国の新聞雑誌だって一年に数回(観光旅行の飛行機の中で)しか読まないような人間に日本外交のこれからを語らせるというのはどういう了見なのでありましょうか。
前に『街場の中国論』を出したあと、公安調査庁の人が調査に来たことがあった。
表向きは中国の現状分析についてご意見を承りたいということだったが、どうも私がどこから「このような」中国国内情報を手に入れているのか、その入手経路をチェックしにいらしたようである。
何か先方と特別なチャンネルをお持ちなのですか?と訊かれたので、「中国についての情報源は毎日新聞だけです」とお答えした。
つねづね申し上げているように、情報というのは実定的なものには限られない。
実定的な情報のピースを並べて、「絵」を描くことは可能だし、「当然このことについて報道されていてよいはずの情報」が組織的に欠落している場合にも、そこで何が起きているかを推察することは可能である。
要は「文脈を読み当てる」ということである。
ジャン・ポーランは『タルブの花』の末尾に「焦点を合わせないで、ぼんやり眺めていないと見えないものがある」と書いているが、歴史の文脈というのも、たぶんそのようにしてしか見えないものだと思う。
自分一身の利害得失のことはとりあえず「棚に上げて」、『草枕』に言うように「ただこの景色を一幅の絵として観、一巻の詩として読む」というのはポーランの「ぼんやり」に通じる。
「画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起こらぬ。ただこの景色が、腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽しませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。」
景色を景色として眺めるときに、その土質やら植生やら、地価やら埋蔵資源やら、最寄り駅まで何分であるとか、もうすぐ新幹線開通とかいうことを知っている必要はない。
必要がないどころか、そんな情報はあるだけ景色の観賞には邪魔である。
それを堪能してもさっぱり「腹の足しにならず、月給の補いにならない」という条件が、非人情の骨法である。
いまわが国で政治について流布している語る人々にいちばん欠落しているのは、この非人情である。
むしろ政治を語る人たちはできるだけ感情的で、前後を亡ずるばかりに興奮し、義憤に駆られ、憂国の熱誠に浮かされていることをデフォルトに採用なさっているかのようである。
同じ話を蒸し返して失礼だが、先般の国会審議で、仙谷官房長官に向かって「怒り方が足りない」と怒っていた議員がいた。
察するに彼が理想とするのは北朝鮮のテレビニュースのキャスターがやっているような「怒髪天を突く」的オーバーアクションなのであろう。
だが、「かかる非道に対しては断固として正義の鉄槌が下されずんばならぬであろう」というようなことを眉毛をぴくぴくさせ、唇をわなわなさせながらテレビカメラの前で演じることがどのような外交的得点をわが国にもたらすと彼が考えているのか、私にはうまく想像できない。
ほんとうにそれが外交的にプラスになると彼が信じているなら、とりあえずNHKに出向いて、すべての政治ニュースを「北朝鮮」型の「眉毛ぴくぴく唇わなわな」スタイルで読み上げるように進言すべきであろう。
内政には気遣いや惻隠の情が必要だが、外交に感情は要らない。
非人情に徹しないと、何が起きているのかわからないからである。
自分の利害得失をとりあえず棚上げしないと「景色」は見えない。
私は「景色を見ること」「文脈を読み当てること」に興味がある。政治について、ほかのことにはとんと興味がない。
昨日の講演ではアメリカの西太平洋戦略について大づかみな話をした。
「大づかみ」もいいところで、モヘンジョダロとか黄河文明とかジョン・ウィンスロップのマサチューセッツ植民地構想とかアレクシス・ド・トックヴィルのアメリカ論にまで遡っての話である。
これくらい射程を広く取らないと、いまの沖縄基地問題の置かれている文脈はわからない。
「アメリカは西太平洋でいったい何をしようとしているのか?」
それがとりあえず最優先の政治的論件であり、これについて連日あらゆる角度からあらゆる情報を精査して議論することが何よりも必要だと私は思っているが、私の知る限り、この論件のために国会審議をしたり、紙面を割いたり、ニュースの解説時間を費やすことに日本人はきわめて不熱心である。というか、まるでしていない。
しかし、「アメリカは西太平洋でいったい何をしようとしているのか?」を問わなければ、在日米軍基地問題の解にたどりつくことはできない。
「アメリカが沖縄や日本国内に基地を引き続き持ちたがっている」ということから議論が始まっており、「なぜ、なんのために」基地があるのかについては、不問に付されている。
その理由が解明されなければ、日本人は何もできない。
「なんだかわからない理由で居座っている人をどういう言い分で立ち退いてもらうか」というような難問に解はない。
アメリカが日本にいる理由がわからない限り、基地問題の解はない。
けれども、日本人はその理由を意識化することを拒否している。
何度も言っているように、日本はアメリカの軍事的属国であり、日本には国家主権がない。
日本は自己決定によって外交を展開したり、条約を締結したり、核武装したり、戦争を始めたりすることができない(もちろん憲法は不戦を規定しているが、この憲法はアメリカからの下賜品である)。
私は核武装したり、戦争を始めたりしろと言っているわけではない(当たり前です)。
そうではなくて、核武装しないのも、戦争をしないのも、「しない」と自己決定したからではなく、「させてもらえない」からであるという現実は認識した方がいいと申し上げているのである。
日本は平和国家であり、そのことを私は心から喜んでいるが、それは日本人が平和的であることを選んだからではなく、平和的であること以外の選択肢を許されなかったからである。
結果は同じでも、プロセスが違う。
だから結果を変えろと言っているのではない。
こういうプロセスでこうなったという事実をクールにみつめた方がいいと申し上げているだけである。
その現実を直視しない限り、基地問題はある日アメリカが「あ、基地もう要らなくなったから、いいや。じゃあね」と不意に立ち去る日まで解決しないということである。
韓国の米軍基地は韓国国民のつよい反対運動によって、3分の1に縮小されつつある。ソウル駅近くの龍山基地は邪魔だからというので撤去された。
フィリピンのクラーク空軍基地とスービック海軍基地は米軍の海外最大の基地だったが、フィリピン政府の「出て行ってくれ」という要請に屈して先般撤去された。
どうして韓国やフィリピン政府にできることが日本にはできないのか。
というより、どうして東アジアにおける米軍基地の撤去が進んでいることについて、日本のメディアはおおきく取り上げないのか。
韓国やフィリピンと日本の違いは、アメリカとの同盟関係の軽重にあるのではない。
もちろんアメリカに強く出られるほど軍事力や経済力があるからという理由でもない。
日本は敗戦国だが、韓国やフィリピンはそうではない。
そこだけが違う。
敗戦国であることは恥ずかしいことではない。
歴史上無数の敗戦国が存在したし、帝国の属領になった土地も無数に存在する。そのすべての敗戦国や属領がそれだけの理由で国民的矜恃を失ったわけではない。多くはその後も絶えず叛乱と独立の機会をうかがい、しばしばそれに成功した。
敗戦国民の基本的なマインドセットは「臥薪嘗胆・捲土重来」である。
「次は勝つぞ」なのである。
それがいかに現実的に困難なことであっても、気概としては「次は勝つぞ」でなければならない。
その上で、「宿敵」アメリカとの歴史的和解を「主体的に、決然と、選択する」というのがことの筋目なのである。
そのような筋目を通していれば、基地問題は国民感情としては「ねじれ」ない。
それはアメリカの一方的な領土占拠であり、日本人は一丸となってこの全面撤去を求めるのが筋だからである。
それに対してアメリカが「自国の」安全保障上どうしても日本列島に基地が必要だと懇請するのであれば、日本政府がネゴシエーションのテーブルにつくのは外交オプションのうちである。
そして、こう訊くのである。
「いったい、どうしてアメリカは自国領土からこれほど離れたところに軍事基地をおかなければ安全保障が成り立たないようなリスクの高い制度設計をしているのか?あなたがたはいったい西太平洋で何をしたいのか?」
この問いに十分説得力のある回答が示されれば、私は一有権者として米軍基地が日本列島に置かれるというオプションを支持してもいい。いや、ほんとに。
基地問題を論じるときの最初の問いとなるべきこの問いを私たちは自ら封じている。
なぜ私たちはこう問うことができないのか。
まずはそこからだ。

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2010年11月29日 11:30 に投稿されたエントリーのページです。

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