エクリチュールについて(承前)

2010-11-05 vendredi

エクリチュールについて(承前)

ロラン・バルトのエクリチュール論そのものが、そのあまりに学術的なエクリチュールゆえに、エクリチュール論を理解することを通じてはじめて社会的階層化圧から離脱することのできる社会集団には届かないように構造化されていた・・・というメタ・エクリチュールのありようについて話していたところであった。
同じことはピエール・ブルデューの文化資本論についても言える。
『ディスタンクシオン』もまた、(読んだ方、あるいは読もうとして挫折した方は喜んで同意してくださると思うが)高いリテラシーを要求するテクストである。
おそらく、ブルデュー自身、フランス国内のせいぜい数万人程度の読者しか想定していない。
自説が理解される範囲はその程度を超えないだろうと思って書いている(そうでなければ、違う書き方をしたはずである)。
だが、「階層下位に位置づけられ、文化資本を持たない人には社会的上昇のチャンスがないように設計された社会」の構造を解明したこの書物が十分な文化資本を持たない人に対しては事実上開かれていないということにブルデュー自身はどれほど自覚的であったのだろうか。
むろん、私はバルトも、ブルデューも、その知性と倫理性を高く評価することに吝かではない。
けれども、彼らがエクリチュールによって階層社会が再生産されるプロセスを鮮やかに分析しつつ、その階層社会で下位に釘付けにされている読者たちには理解することのむずかしいエクリチュールを駆使してきたことはやはり指摘しておかなければならないと思う。
階層社会の本質的な邪悪さは、「階層社会の本質的な邪悪さ」を反省的に主題化し、それを改善する手立てを考案できるのが社会階層上位者に限定されているという点にある。
「社会的流動性を失った社会」を活性化できるだけ知的にも倫理的にも卓越した精神が同一の社会集団から繰り返し登場することによって、結果的に文化資本は少数集団に排他的に蓄積してゆき、社会的流動性は失われる。
この「トリック」は階層社会の内部にいる限り、前景化しにくい。
さいわい、日本社会はフランスほどには階層化されていない。
文化資本や社会関係資本はすでに一定の社会的層に蓄積されつつあるけれど、まだそれは「階層」というほど堅固なものにはなっていない(と思う。希望的観測だが)。
私は文化資本の排他的蓄積を望まない。
私は水平的にも垂直的にも流動性の高い社会を望む。
そのためにも、バルトやブルデューのようなすぐれた知性のみが生み出しうる卓見をできるだけ多くの人々が「リーダブルなかたち」で享受できることを望むのである。
エクリチュール批判は「自らがいま書きつつあるメカニズムそのもの」を対象化しうるエクリチュールによってなされなければならない。
はたして、それはどのようなエクリチュールであるのか。
自分たちが嵌入している当の言語構造を反省的に主題化できる言語、自分たちが分析のために駆使している言語の排他性そのものを解除できる言語。
そのような不可能な言語を私たちは夢見ている。