映画「ノルウェイの森」を見ました

2010-10-28 jeudi

好きな小説が映画化されたとき、どこを見るか。これはなかなかむずかしいです。
基本的にはやりかたは三つあると思います。
(1)原作をどれくらい忠実に映画化したか、その忠実度を評価する。
(2)原作からどれくらい離れたか、何を削り、何を付け加えたか、フィルムメーカーの創意工夫を評価する。
(3)原作のことは忘れて、単独の映画作品として、「同じジャンルの他の映画」とのシナリオや映像や演技の質的な違いを評価する。
『ノルウェイの森』の場合、なにしろ累計発行部数が1000万部を超えた「超ベストセラー」です。
僕だって三回読んでしまったくらいですから、「原作を読んでないふりをして映画を見る」ということは不可能です。
となると、残る選択肢は「忠実度を見る」か「裏切り度を見る」かしかありません。
僕はあらゆる映画評において「できるだけいいところを探してほめる」ことを心がけているので、「忠実度においてすぐれた点」と「裏切り度においてすぐれた点」の両方についてレポートしたいと思います。

まず、「忠実度においてすぐれている点」。
キャスティング。
これは主演の松山ケンイチくんがほんとうに「村上春樹にそっくり」で、すばらしいです。
ちょっと松山くんの方が面長だけれど、うつむいたときの横顔なんか、はっとするほど村上春樹そっくり。しゃべり方もいかにも「そうそう、こういう感じ」です(ときどき声がひっくり返るんですけど、それもいい味です)。
小説の「ワタナベくん」は村上春樹自身じゃないんだけれど、それにしても。
それから緑さん(水原希子)がすごくいい。
緑ちゃんの「ねえ、あたしが今何考えてるかわかる?」という突拍子もない台詞はほとんど原作のままですけれど、水原さんのかすれた声がそこに不思議な厚みを与えています。
直子(菊池凛子)のキャラクター設定については賛否両論があるでしょう。
直子は「ふつうの女の子」がしだいに「狂ってゆく」、『キャッチャー』におけるホールデン少年的な「不可避的に転がり落ちる」危うさが魅力なんです。そのためには「ふつうの女の子」としての清楚な優等生的な魅力がきちんと描かれていないといけない。そうしないと、「転落してゆく怖さ」が出ない。でも、映画では二人の長い東京散歩とかみ合わない会話のところをさらっと流して、すぐに誕生日の、直子が最初に精神的に崩れる場面に入ってしまいます。
ミスキャストは(これは「ほめる映画評」には書くべきじゃないけれど)永沢さん(玉山鉄二)とレイコさん(霧島れいか)。
でも、これは俳優のせいじゃなくて、脚本のせいですね。悪いけど。
永沢さんの人間的魅力と凄みは「ナメクジを飲む」という出だしのエピソードで印象づけられるのですけれど、映画ではカットされている。これがないと、ただのイケメンの鼻もちならないエゴイスト野郎にしか見えません。
レイコさんの場合は、彼女が精神的に崩壊するに至った「邪悪な十三歳の美少女」の強烈な出会いの経験をワタナベくんに語ることで、人間性の奥行きが示され、彼女とワタナベくんとの親しい繋がりが理解されるのですけれど、それがカットされている。
そして、物語のいちばん最後に、直子のために二人で50曲のギター演奏で彩られた「楽しい葬式」をすることで、二人が許し合い、求め合うことの理由がわかるのですが、なんとこの小説のクライマックスシーンが映画ではまるごとカットされているのです・・・こ、これではレイコさんはただの「エロいおばさん」じゃないですか。すごく素敵な人なのに。
それから、ワタナベくんが緑のお父さんの看病をする場面がカットされていましたね。このとき、はじめてあったガールフレンドの危篤状態のお父さんの汗を拭いて、「しびん」におしっこをさせて、海苔を巻いたキュウリを食べさせる魔術的な手際に対して緑ちゃんは「この人は信頼できる」と確信するわけですけれど、その大事なシーンもカットされてました。この場面がないと、どうして緑ちゃんがそんなに深くワタナベくんを愛するようになるのか、わからない。
もう少し続けますね。「忠実度においてすぐれている点」は1968年の早稲田大学のキャンパスの再現。
このヘルメットかぶった学生たちのシュプレヒコールとヘルメットの色分けはまことに現実に忠実でした(社青同がたくさんいて、MLが一人だけしかいないとか、ね。中核と革マルの白メットが出てこないのは「時代考証」した方の個人的な趣味でしょうけど)。
あと、もうひとつだけ。
ワタナベくんが直子と一緒に暮らそうと思って借りたのは原作では国分寺の縁側のある日当たりのよい一軒家でした。そこでワタナベくんは、ぼおっとネコと遊んでいるんです。映画ではなんだか日当たりの悪い、潤いのないアパートで、これは「癒しのための場所」じゃないでしょう・・・と僕は思いました。
視点を変えて、「裏切り度」においてすぐれた点を探してみます。
う・・・とっさには出てきませんね。
原作になくて映画のオリジナルは、二度目の療養所訪問のときに、ワタナベくんが直子と強引にセックスしようとする場面。でも、これは僕にはかなり違和感がありました。雪の中で抱き合う場面も原作にはありません。レイコさんがシャワー浴びる場面も(原作の国分寺の下宿にはお風呂なんかついてないですから)。
つまり、ちょっと「色っぽい」場面がいくつか追加されているわけですけれど、きっとそれで「恋愛映画」的なフレーバーを強化しようとしたということなんでしょう。
でも、僕にはこの企ては成功しているようには思えませんでした。申し訳ないけど。
でも、最後にジョン・レノンのあのしゃがれた声で『Norwegian wood』が流れると、そういう細かな瑕疵は全部どうでもよくなっちゃいました。そうだよな、『ノルウェイの森』って、「そういう時代」の空気をくっきり切り取った物語だったんだから、そのときの音が聴こえて、そのときの空気の波動がふっと伝われば、それでOKなんだよね。
あと最後の最後に一つだけ。
ワタナベくんと緑ちゃんは新宿のDUGで会うんですけど、僕も実は1968年から70年ごろによくDUGでジャズを聴いて、お酒を飲んでいました。とてもシックでトンガッた店だったので、あの店をセットで再現して欲しかったですね。僕らが予備校生や大学生だった頃、女の子を連れてお酒を飲むというと、とりあえずDUGだったんです。村上春樹さんがやっていたジャズバー「ピーターキャット」の原型もたぶんDUGだったんじゃないかな。