法の制定について

2010-09-14 mardi

高橋源一郎さんがツイッターでルソーの『社会契約論』を引いて民主主義というシステムについて書いている。
私もこれとほとんど同じ内容のことを先日の中沢新一さん、平川克美くんとのセッション、『迷走する資本主義』で話した。
別にそれは不思議な暗合でもなんでもなくて、このあいだ高橋さんと『Sight』の仕事でご飯を食べたときに、高橋さんが民主主義というシステムはベストのものではないという論件を提起したので、その話題でずいぶん盛り上がったからである。
民主主義に限らず、どのような政治システムも、その「健全さ」は最終的にそのシステムのもたらした「コラテラル・ダメージ」について「私が責任を取る」と名乗り出る、生身を備えた人間がいるかどうかによって考量されるほかないと私は思っている。
これについては、前に「未履修問題」について書いたことと原理的には同じである。
未履修問題について、私はこう書いた。

私の見るところ、この履修問題が顕在化したプロセスはつぎのようなものである
(1)学習指導要領と現場での教育内容には乖離がある
(2)この乖離を学校と教育委員会は法規の「弾力的運用」によってつじつまあわせをしていた
(3)「弾力」の度が過ぎたので、あちこちでほころびが出た
この現状認識に特に異存のある方はいないであろう。
(…)
問題は(2)と(3)の間にある。
法規と現実のあいだに齟齬があるときには、「事情のわかった大人」が弾力的に法規を解釈することは決して悪いことではない。
今回の問題は(3)の「度が過ぎた」という点である。
「弾力的運用」ではなく、いくつかの学校では必修科目をネグレクトすることが「硬直化した構造」になってしまっていたということが問題なのである。
「度が過ぎた」せいでシステムがフレキシブルで生産的になるということはない。
これは経験的にはっきり申し上げることができる。
「度が過ぎる」とシステムは必ず硬直化する。
原理主義の度が過ぎても、自由放任の度が過ぎても、「政治的正しさ」の度が過ぎても、シニスムの度が過ぎても、放漫の度が過ぎても、厳格さの度が過ぎても、必ずシステムは硬直化し、システムの壊死が始まる。
そういうものである。
最初に文科省からのお達しを聴いて、「これをそのままに現場でやることは現実的にはむりだわな」と判断して、「というわけですので、みなさんここはひとつ私の顔に免じて、弾力的にですな、ご理解いただくという」というようなことをもごもご言った人がいた段階ではシステムはそれなりに「健全に」機能していたのである。
私はそう考える。
だから、「私の着任以前の何年も前からルール違反が常習化しており、私も『そういうものだ』と思っておりました」というようなエクスキュースを口走る管理職が出てきたことがシステムの壊死が始まっていた証拠である。
彼らはバブル末期の銀行家たちと同じように、「在任中に事件化しなければ、どのような法令違反も見ないふりをする」というかたちでルール違反を先送りしてきた。
だが、「超法規的措置」とか「弾力的運用」ということがぎりぎり成り立つのは、それが事件化した場合には、「言い出したのは私ですから、私が責任を私が取ります」と固有名において引き受ける人間がいる限りにおいてである。
法理と現実のあいだの乖離を埋めることができるのは固有名を名乗る人間がその「生身」を供物として差し出す場合だけである。
川島武宜先生は「生身」を差し出すことによる「ソリューション」の代表例として河竹黙阿弥の『三人吉三廓初買』の「庚申塚の場」を挙げている。
お嬢吉三という悪党が夜鷹から百両を奪う。それを目撃して、「その百両をよこせ」と強請るのがお坊吉三。二人が刀を抜いて金を争うところに、もう一枚上手の悪者である和尚吉三が登場する。
そして二人に向かって「己に預けて引いて下せえ」と持ちかけ、二人がとりあえず収めると、こう続ける。

「ここは一番己が裁きを付けようから、厭であろうがうんと云って話に乗ってくんなせえ。互いに争う百両は二つに割って五十両、お嬢も半分お坊も半分、留めに入った己にくんねえ。其の埋草に和尚が両腕、五十両じゃ高いものだが、抜いた刀を其儘へ収めぬ己が挨拶。両腕切って百両の、高を合わせてくんなせえ。」

言われた二人は刀を和尚吉三の腕に添えて、その腕を引き、自分たちの腕も引いて、それぞれ腕から流した血を啜り合って、「かための血盃」で兄弟分となる・・・というたいへん心温まるお話である。
これは紛争の超法規的=日本的解決の典型的な事例であると申し上げてよろしいであろう。
しかし、この調停が成功するのは、和尚吉三が「両腕」を供物として差し出すからである。
非妥協的な利害の対立の場面に「弾力」を導入することができるのは生身の身体だけである。
対立の場にねじこまれた生身の身体によって、対立の当事者たちはそれぞれ半歩退き、そこに一時的な「ノーマンズラ・ンド」(非武装中立地帯)のようなものができる。
これがソリューションとして有効なのは、それは当事者も仲裁者も、誰もがこの解決から利益を得ないからである。
(…)
ことのはじめに学習指導要領の「弾力的運用」に踏み切った現場の校長や「見て見ぬ振り」をした教育委員会の諸君は、多少とでも「和尚吉三」的エートスを残していたように私には思われる。
文科省と生徒の間に立って、「これで高を合わせておくんなせえ」と「手打ち」をもちかけたのである。
ことが発覚して、糾弾された場合には潔く「両腕」ならぬ辞表くらい差し出す覚悟はあったであろう(希望的観測)。
法規の弾力的運用が許されるのは、そのような仕方で固有名をもった個人がおのれの「生身」を担保に置く場合だけである。
誰も責任を取る人間がいない「法規の弾力的運用」は単なる違法行為である。
責任を取る気のある人間は「ばれた場合に300時間の補習が必要になる」ような「度の過ぎたルール違反」はしない。
とてもじゃないけど、責任の取りようがないからだ。
こんなルール違反ができるのは「はなから責任を取る気のない人間」だけである。
責任をとるつもりでいる人間が自前の「生身」を差し出している限り、「常識的に考えてありえない」ような「度の過ぎた」ルール違反はなされない。
「度が過ぎる」のはいつだって「前任者からの申し送り」を前例として受け容れ、その違法性について検証する気のないテクノクラートたちである。
彼らの罪は重い。
(引用ここまで)

これは 4 年前に書かれた文章だが、私が言いたいことは、民主主義についても変わらない。
私が言いたかったことは、次の一文に集約される。

「法理と現実のあいだの乖離を埋めることができるのは固有名を名乗る人間がその『生身』を供物として差し出す場合だけである。」

統治にかかわるすべての議論は、深刻なアポリアを含んでいる。
それはある統治形態の設立は、その統治形態の下での法の執行ではないということである。
専制体制が覆されて、民主制が樹立するプロセスにおいて、民主的な政府を樹立する行為(革命行動)は現体制下では「犯罪」とみなされて、ふつうは処罰の対象となる。
ルソーは「政府の設立」を「法の制定」、設立された政府による統治行為を「法の執行」と呼び、この二つの次元を峻別した。
「法の執行」は合法的である(当たり前だ)。しかし、「法の制定」は合法的ではない(法の制定に至るプロセスでは、まだ法が存在しない)。
ルソーは「法の制定」という「命がけの跳躍」(salto mortale) を合理化する方途について『社会契約論』の中で必ずしも説得力のある提案をしていないように思われる。
最終的にそのような行為を正当化するものとして、ルソーが強調しているのは、共同体の親密さである。
端的には「規模の問題」である。
それまであったシステムを廃棄して、次のシステムに作り替えるというような根源的改革は緊密な連帯を通じてしか果たされない。
そのとき重要なのは、どのようなすばらしい政体を制定するかについて適切な綱領が提出されていることよりもむしろ、その運動が人々の「緊密な連帯」によって遂行されているという事実の方なのである。
現に、別のテクストにルソーはこう書いている。

「もしも自分の生まれる場所を選ばなければならなかったとしたら、わたしは人間の能力の範囲によって限られた、すなわちりっぱに統治される可能性によって限られた大きさの社会、そして各人がその仕事を十分に行え、だれも自分が負わされた職務を他の人々にまかせる必要のないような社会を選んだことでしょう。つまりそのような国家ならば、すべての個人が互いに知り合いなのですから、悪徳がひそかに行われたり、美徳が目立たないでいるというようなことは、公衆の視線と判断の前では起こりえないし、そしてこのお互いが会ったり知り合ったりするというここちよい習慣によって、祖国愛は、土地に対する愛というより、むしろ市民に対する愛となるのであります。」(ジャン=ジャック・ルソー、「人間不平等起源論」、小林善彦訳、中央公論、2005年、5頁)

どこに着地するかわからない「命がけの跳躍」による新たな政体の設立の適切性を担保するのは、最終的には「私は私とともにあらたな政府を作り出そうとしているこれらの同胞と互いに知り合いである」という根源的事実である。
書けば、当たり前のことだが、「連帯は革命に先行する」のである。
私が「生身」という言葉で言おうとしたのは、「手で触れることができる」ということである。
「可傷的な身体」と言ってもいい。
共同体をともに構成する人々と「現に触れ合っている」という原事実の上にしか、「法の制定」というような超法規的行動は基礎づけられない。
可傷的な身体を担保に差し出すことなしに「法の制定」はなしえない。
それは可傷的な身体、生身の身体は「かけがえがない」からである。
人は「いくらでも代わりがあるもの」については粗雑な扱いをする。「かけがえのないもの」については、それが傷つけられないように、丁寧に扱う。
政治的意見についても同じである。
「世論」や「定型的オピニオン」をただ模倣しているだけの人にとって、その政治的意見は「かけがえのないもの」ではない。
彼が黙って口を噤んでも、誰かが同じことを代わって言ってくれるはずだからである。あるいは彼に言責が求められても「私が言ったんじゃありません」と他人に責任を転嫁することができるからである。
そのような言葉は粗雑に扱われる。
だから、請け売りの定型句は「殺せ」とか「黙れ」とかいう攻撃的な言葉とすぐに親和するのである。
自分の固有名を付した意見をもつものだけが、情理を尽くして語る。
それは彼が語るのを止めたら誰も彼に代わって語ってくれない言葉だからだ。人々が耳を塞いでしまったら、もう二度と誰にも聞き届けられるチャンスのない言葉だからだ。
「情理を尽くして、他の誰によっても代替できない言葉を語るものたちの共同体」だけが「法の制定」というような根源的行為を担いうる。
ルソーは一般意志について語りながら、畢竟するところ「かけがえのないものたちの間の親密さ」について語っていたのではあるまいか。
ルソーのこの言葉を読んでいるうちに、私は村上春樹のエルサレム・スピーチの中の印象深いフレーズを思い出した。
それを書きつけて終えよう。

今日、皆さんにお伝えしたいことはたった一つしかありません。それは私たちは国籍も人種も宗教も超えた個としての人間だということです。そして、私たちはみな『システム』と呼ばれる堅牢な壁の前に立っている脆い卵です。どう見ても、勝ち目はありません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい。もし、私たちにわずかなりとも勝利の希望があるとしたら、それは自分自身と他者たちの命の完全な代替不能性を信じること、命と命を繋げるときに私たちが感じる暖かさ信じることのうちにしか見出せないでしょう。

「命と命を繋げるときに私たちが感じる暖かさ」(the warmth we gain by joining souls together) についてルソーもまた語っていたように私には思われる。
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