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成功について

イギリスにいる研究者から「成功について」というテーマで質疑応答のやりとりをした。
なんと、各界の「成功者」たちにインタビューするという研究だったのである。私は「成功者」にカテゴライズされているらしい(知らなかった)。
奇妙な気分がしたけれど、そういう幻想的な評価はどのようにして定着するのかという消息には興味があったので、ご協力したのである。そのやりとりが日本語でネット上でも公開されることになった。
前に一部をブログで公開したけれど、今回は全文を転載。
長いですので、お時間のあるかただけどうぞ。

問い1)何故、そしてどのように現在の教授職にたどり着いたのか

いくつかの職業選択の分岐点で、そのつどの気分で道を選んでいるうちに、20代の終わりに研究者・教育者への道を選択することになりました。やってみたら、けっこう、性に合っていたので、気が付いたら30年以上もこの仕事をしていました。その教授職も今年限りで、来年からは別の仕事をします。

問い2)「成功」の定義の仕方とは。

「成功する」ということを自分自身の生きる上での目的に掲げたことがなく、また人を評価する場合も、「成功したかどうか」という基準で見ることがない、個人的な定義はありません。

でも、一般に用いられている「成功」という語には共通のコノテーションがあるとは思います。
強いて定義すれば、「成功」の定義とは、本人の自己評価とはかかわりなく、周囲の人間の多くから「この人は成功者だ」と思われる人間の諸属性、ということになります。ほとんど同語反復ですけれど。

問い3)幸せイコール成功の方程式は成り立つのか。成功に対する物差しはつまるところ個人へ行き着くのか。

「幸福」と「成功」は一致しないと思います。
「成功したが、幸福ではない」という文も「成功していないが、幸福である」という文も、どちらもふつうのリテラシーを備えた読者は「無矛盾的」な文として読むことができます。
「幸福」についての物差しはあくまで個人の主観的印象です。
ですから、「私は幸福である」という言明は他人が否定しても、私が宣言すれば成立します。
この言明を否定する権利は他者にはありません。「あなたが幸福であるはずがない」という反論はほとんど無意味です。
しかし、「私は成功者である」という言明は個人的なものではあり得ません。
ここには「私は世間から成功者とみなされているはずである」という、「他人の判断についての評価」が含まれているからです。
ですから、それについては、「あなたの『他人の判断についての評価』は適切ではない」という反論が可能です。
「あなたは成功者ではない。現に、私はあなたを成功者だと思っていない」という言明は十分に破壊的です。

問い4)僕らの社会で全人類が成功するというアーギュメントに(少なくとも精神的に)抵抗があるのはなぜか。それを克服するソリューションは何か。

「成功」というのは、上で述べたように「他人の判断」ですので、他者に依存しています。
極端な例を挙げれば、人類が死滅して、世界最後のひとりになった人間が「私は幸福だ」という自己評価を下すことは(蓋然性は低いですが)不可能ではありません。
けれども、その人が「私は成功者である」と自己評価することはありえません。
というのは、ここには「あなたは成功者である」と評価する他者が存在しないからです。
成功というのは、「できることなら、あなたと立場を代わりたい」という、「成功していない人間」の欠落感や、羨望を(仮説的にではあれ)勘定に入れない限り成立しない、ということです。
「成功者クラブ」があって、そこでは全員がおたがいを「成功者」として認めあっている場合でも、「クラブ」のそとに「われわれを羨んでいる人々がいる」ということをメンバーたちが前提していなければ、それは「成功者クラブ」とは呼ばれません。
ですから「全人類が幸福になる」ということはありえますが、「全人類が成功する」ということは成り立たないと思います。

問い5)21世紀において「ベスト」な国際政治体系とは何か。

上の定義からすれば、「成功した政治体系」とは、自分は「成功していない政治体系」のせいで不当な苦しみをこうむっていると考える人々が「できることなら代わりたい」とカムアウトすることによってのみ成立するものです。
ですから、私が「失敗した統治システム」と評価するものを、「すばらしく成功している」と評価する人々がいても、まったく不自然ではありません。
政治体系に「ベスト」は存在しません。ひとりひとりについて、「これよりはましと思えるシステム」があるだけです。
とりあえず私たちが歴史的経験から学んだのは、「ベストの政治体系」があると信じ、それを一気につくりだそうとした政治権力は、例外なく、反対者の粛清か強制収容か、その両方を採用したということです。
「ベストの政治体制」があたかも存在しうるかのように語る人間にはできるだけ近づかない方がいい、というのは私がまずしい政治的経験からひきだし得た数少ない教訓のひとつです。

問い 6)一人の教育者として、これから国際社会で求められている能力をどう捉えているか。日本の成功した教育モデルと世界のモデルは同一であるべきか。そして何が違うのか。

国際社会で求められている能力は、「国際共通性をもたないアイディア(ローカルな、あるいはパーソナルな)を、国際共通性のある言語とロジックに載せて展開する能力」だと思います。
現代人に限らず、人類がジャングルから出て共同生活を始めてから、求められる能力はつねに同じです。

問い 7)個人単位での成功において最も大切なものは何なのか。

上に書いたように、成功についても、成功者についても、あまりまじめに考えたことがないので、この質問には答えられません。
以上です。
どうもお役に立てないようで、すみません。


そのあと追加の質問がありました。

追加問い1) ご返事どうもありがとうございました。大変勉強になります。
本当に図々しいんですがあと二つだけ質問してもよろしいでしょうか。
成功が他者によって成り立つという過程が成立するのであれば「部分的な成功を全人類的にシェアする」ことは可能か。例えばAさんの教授としてのキャリアは多くの人に成功者と言われるだろうが、彼はBさんの天才的な料理のスキルをリスペクトすのでBさんも成功と言えて、、、というかたちで成功の絶対量(リスペクトの数)(あるとすれば)は違えど、人間が成功できると僕は思ったんですが内田先生のご意見を聞かせてください。すごい単純に言うと人は全員良いとこがあってそれを認め合う事は可能か、という性善説なんですが。そのリスペクトの数も相対的に考えるとまたこれも「少し成功してる人」と「たくさん成功してる人」が生まれますが、ぼくは少なくとも現在の社会で成功者という判断を一切されてない、それこそ親からも友人からも職場の仲間からも、人はごまんといると思います。そしてそれが、強引ですが、社会的な問題をおこしてる一つの引き金だとも思うのです。

問い2)ベストのソリューションがないときにはベターを、というご意見についての質問ですが、「これはあれよりまし」と判断するのは誰ですか(もしくは誰であるべきか)。政治家なのか、知識人なのか、小市民なのか。ぼくはその答えが出せなかったので現在集合的なインタビューで答えを見つけようとしています。それが民主主義社会において誰もが「反対する事が出来ない」唯一の方法だと思うからです。

質問のつづきにお答えします。
問い1について、「成功」というアイディアが、社会的弱者のうち、自分を「非成功者」とみなしている層につよいフラストレーションを与えているというのは事実だと思います。
けれども、社会的弱者でも自尊感情を維持しているひとたちはたくさんいます。
自尊感情と成功は必ずしも同期しないとぼくは思います。
逆に言えば、社会的「成功」者とみなされながら、自尊感情が低い人もたくさんいます。彼らは「成功が足りない」と思っているので、他人に対して、不要に屈辱感を与えようとしたり、過剰な奉仕を求めたりして、「自尊感情の不足分」を補おうとします。
このような人間を作り出すことには社会的に何の意味もないと僕は思います。
それよりは、自尊感情というのはどのように構造化されているのか、どうすれば、「十分な自尊感情をもっている」人たちをつくりだすか、という問いに知的資源を割く方が合理的ではないでしょうか。
最終的に自尊感情を形成するのは「私にはあなたが必要だ」という他者からの懇請の言葉に尽くされると思います。
「自尊感情」というのは「オレはえらい」という自己認識のことではなく、「私は生きなければならない。私にはやらなければならない仕事があり、それは私以外の人間によっては代替できぬからである」という他者とのかかわりからもたらされるものだからです。
I cannot live without you というメッセージほど人間の「生きなければならない」という気持ちをかきたてるものはありません。

問い2について、
「ベターなソリューション」というのは、解そのもののことではありません。「ベストなソリューションは存在せず、ベターなソリューションしか存在しない。どれをベターとするかについての汎通的な基準はない(あれば当然その基準にもとづいて「ベストなソリューション」が導出できるはずだからです)」ということについての集団的合意、という事態そのものを言います。
それは「言論の自由」と同じ成り立ちをしています。言論の自由というのは「何を言っても構わない」という意味ではなく、「さまざまな言論のうち、どれがベターであるかについて検証する場が存在する」という「場への信認」のことです。
そのような「適否の判断をする場」めざして人々は発言する。人々を説得して、合意形成をめざす。
そのために情理を尽くして説く。
そのようなルールがとりあえず承認されている事態そのものを「ベターなソリューション」と申し上げたのです。
合意形成めざして発言するひとがなにものであるかということは問題にはなりません。
判断を下すのは個人ではなく、「適切な判断を下す場への信認」です。位相が違うのですが、その違いがおわかりになるでしょうか。
(やりとりはここまで)

なんか、ちょっと不親切な終わり方をしているけれど、それは若い知識人たちが「正解」と正解を導く汎通的解法を求めるのにいささか急であることに困惑して、そうなってしまっているのである(ごめんね)。
若い人にはぜひこの一言を玩味していただきたい。
「急いちゃいかん」(@by 佐分利信 in 「秋日和」)

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2010年09月14日 11:14 に投稿されたエントリーのページです。

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