「緋色の研究」の研究

2010-08-20 vendredi

世の中には「箴言」として書きとめておきたい文句が数頁に一度出てくる小説がある。
不思議なもので、そういう小説は、読み終わって何年もして、ストーリーはほとんど忘れてしまっても、「箴言」の方だけはしっかり身体の中に残っている。

「ハードでなければ生きていけない。ジェントルでなければ生きているに値しない」
If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.

とか。
でも、この文句が出てくるのはチャンドラーのどの小説かは、とっさには思い出せない(『プレイバック』なんですけどね)。
考えてみると、長きにわたって読まれ続ける小説は必ずそのような箴言を含んでおり、ときに箴言の方が小説より長く生きることさえある。
サー・アーサー・コナン・ドイルの『緋色の研究』を読んでいたら、素敵な箴言がちりばめられていた。
ラカンはポウの『盗まれた手紙』を素材に有名なセミネールを行ったが、シャーロック・ホームズを素材にしたセミネールがあることを寡聞にして知らない(私が「寡聞にして知らない」というのは、修辞的強調ではなく、ほんとうに「よくものを知らないので、知らない」という意味なので、ラカンがシャーロック・ホームズについて論じた研究があったら、教えてくださいね)。
でも、ホームズの推理術はオーギュスト・デュパンのそれとは違う意味で、分析的であり、きわめて汎用性の高いものだと私は思っている。
それをホームズ自身は「遡行的」な推理と読んでいる。

「君にはもう説明したはずだが、うまく説明できないもの (what is out of the common) ものはたいていの場合障害物ではなく、手がかりなのだ。この種の問題を解くときにたいせつなことは遡及的に推理するということだ。(the grand thing is to be able to reason backward) このやり方はきわめて有用な実績を上げているし、簡単なものでもあるのだが、人々はこれを試みようとしない。日常生活の出来事については、たしかに『前進的に推理する』(reason forward) 方が役に立つので、逆のやり方があることを人々は忘れてしまう。統合的に推理する人と分析的に推理する人の比率は50対1というところだろう。」
「正直言って」と私は言った。「君の言っていることがよく理解できないのだが」
「君が理解できるとはさほど期待していなかったが、まあもう少しわかりやすく話してみよう。仮に君が一連の出来事を物語ったとすると、多くの人はそれはどのような結果をもたらすだろうと考える。それらの出来事を心の中で配列して、そこから次に何が起こるかを推理する。けれども中に少数ではあるが、ある出来事があったことを教えると、そこから出発して、その結果に至るまでにどのようなさまざまな前段 (steps) があったのかを、独特の精神のはたらきを通じて案出する (evolve) ことのできる者がいる。この力のことを私は『遡及的に推理する』とか、『分析的に推理する』というふうに君に言ったのだよ。」
(Sir Arthur Conan Doyle, A Study in Scarlet, in “Sherlock Holmes, The complete novels and stories, Volume 1”, Bantam Classics, 1986, p.115-116)

あるものを見たときに、継時的にそれを配列して、次に何が起きるかを推理する力と、あるものを見たときに、そこに至るどのような「前段」がありえたのかを推理する力は、まったく異質のものである。
前進的・統合的推理をする人間は、一連の出来事を説明する仮説を立てようとするときに、「うまく説明できないもの」を軽視ないし無視する傾向がある。
自然科学においては、「仮説に対する反証事例」を、「許容範囲内の誤差」として処理する態度がそれである。
けれども、ホームズ型の知性は、「仮説に対する反証事例」、つまり、「うまく説明できないもの」を導き手 (guide) として推理をすすめる。
それが出来合いの仮説では「うまく説明できないもの」であればあるほど、「それを説明できる仮説」の数はむしろ絞り込まれてくる。
「うまく説明できないもの」とは、ロラン・バルトの用語を流用すれば、「鈍い意味 (le sens obtus)」である。
「私の理解がどうしてもうまく吸収することのできない追加分として、『余分』に生ずる、頑固であると同時にとらえどころのない、すべすべしていながら逃げてしまう意味」(『第三の意味』)
それはたいていの場合「あるはずのないものがある」「あるはずのものがない」という欠性的な、あるいは迂回的なかたちで示されている。
それに反応する知性、それを「導き手」として「前段」を「案出する」力、それがどれほど希有のものであり、また真に知性的なものであるかは、シャーロック・ホームズが嘆くように、まだ人々には十分に理解されていない。
むろん、私たちの国でも「遡及的に推理する」ことのたいせつさを語る人はほとんどいない。
みなさん、暑い夏休みはシャーロック・ホームズを読んで過ごしましょう。さいわい、どこの本屋でもホームズの文庫本が切れるということはありませんから。
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