先日の毎日新聞の「余録」が日本の教育の失敗を海外の成功例と比較して難じていた。
例えばフィンランドはソ連崩壊の余波で「大不況に見舞われ国の歳出は大幅カット。そのなかで教育費だけ増やす大勝負に出た。それは大きな果実をもたらした。子どもたちの学力は急伸。国際比較ではいつも世界のトップだ。ノキアなど知識集約型の産業が発展し『森と湖の国』はハイテク国家に変容した。」
よく聴く話である。
もう一つの成功例はシンガポール。
「シンガポール政府のウェブサイトを見ると、英語、日本語、中国語、韓国語など7種の言語で、世界の若者に留学を呼びかけている。もしあなたが卒業後3年間シンガポールで働けば、学費の8割を無償供与しましょうと。世界の大学はいま、いかに海外の優秀な頭脳を獲得するかを競う。それが国の将来を左右するからだ。日本は大丈夫だろうか。英タイムズ紙系の『QS大学ランキング』10年版(アジア地域)を見ると、シンガポール国立大学が昨年の10位から3位に急上昇し、東京大学の5位(日本では首位)を追い越していた。」
私はこれを読んで、朝から気分がなんだか悪くなった。
大学教育の現場の人間として繰り返し言っていることだが、教育のアウトカムのうちもっとも重要な部分は数値的に表示できない。
「大学ランキング」は数値化できるものだけに基づいて大学を序列する。
博士号授与数とか獲得した特許数とか外部資金獲得額とか奨学金総額とか学会賞受賞数とか外国人留学生数とか学生一人当たりの校地面積とか図書冊数とかいうA4一枚に書ける程度の数値で大学は格付けされる。
私はそれが悪いと言っているわけではない。
ことの順逆を間違えて欲しくないと言っているのである。
格付けに利用される数値と、アカデミアの innovativeness の関係は、「エレベータの階数表示」とエレベーターの空間的な位置の関係に類するものである。
エレベーターが空間的に高いポジションにいれば、階数表示も大きな数字を示す。
だから、「階数表示を大きくする」ことを目標に掲げるというのは、愚かなことである。
目標とすべきは「エレベーターの空間的なポジションを上げる」ことであり、階数表示ではない。
むかし『ひょっこりひょうたん島』で、悪人を乗せて降下するエレベーターを止めようとして、ドンガバチョがエレベーターの階数表示の「針」を止めるという大技を繰り出したことがあった。
「大学ランキング」を上げるために何かをするというのは、きわめてドンガバチョ的なふるまいである。
問題がエレベーターの空間的位置取りを上げることであるなら、方法は無数にあるからだ。
地下室に爆薬を仕込んで吹き飛ばすという手もあるし、巨人を呼んできて摘み上げてもらうという手もあるし、地軸を逆転させるという手もある。
そういうことである。
「イノベーティヴである」というのは、ある目的を遂行するためにどれだけ多くの、できるだけ想像を絶する手立てを思いつくかという能力のことである。
アカデミアはイノベーティヴであることによってのみ存在価値を持つ。
日本の大学が国際的なランキングで低下しているのは動かしがたい事実である。
けれども日本の大学の国際的な競争力を下げている大きな原因の一つは、「競争力が上がったことを数値的に表示しろ」ということしか言えない政治家と教育行政官とメディアの「ぜんぜんイノヴェーティヴでない発想」そのものなのである。
大学ランキングで自分のところより上位の大学があるから、その成功事例を「真似ろ」という発言をふつうは「模倣」という。
先行事例の模倣を通じてアカデミアが生成的な環境になるということは「ありえない」。
ノーベル賞をもらった理論の真似をした理論を発表すればノーベル賞がもらえると思っている人間がいたらそれが救いがたい愚者であるということは誰にでもわかる。
それがわかるなら、フィンランドやシンガポールの成功事例の「真似をしろ」ということしか教育改革についての提言が出来ないという骨がらみの「反創造性」が日本の大学の創造性を損なっているのかもしれないという可能性についても配慮できるのではないか。
フィンランドやシンガポールが成功したのは、成功事例を模倣したのではなく、「ほかのどこもやっていないこと」をやったからだという単純な理路が理解できないほどに日本人の知性が不調であるのだとしたら、この国の教育に未来はない。
全然、ない。
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(2010-08-26 09:00)