英語ができんが、何がいかんとや

2010-07-25 dimanche

英語公用語化について批判的なコメントをブログに書いたら、いろいろなメディアから取材が来た。
「これはちょっとまずいんじゃないか・・・」とみんな思っているんだけれど、どうしてまずいと思うのか、その自分自身の直感の根拠がよくわからない。
まあ、直感なんだから根拠がわからないのは当たり前なのだけれど、こういう「暗黙知」的なアラームには耳を傾けた方がいいと私の経験は教えている。
公用語化には、いろいろなレベルでの「ひっかかり」を感じるけれど、いちばん問題なのは現に「英語嫌い」の子どもたちが構造的に生まれつつあることに配慮していない点である。
英語ができない学生がほんとに多いのである。
先日の「英語で合気道」は結局受講生全員(といっても 3 人だけ)日本人。アシスタントは合気道部と杖道会の学生なのでもちろん日本人。それに松田先生と国際交流センターの北川さん(通訳も兼務)。
What should I do in this case?
でも、「英語で日本文化を紹介する」というコンセプトの授業に日本人学生が受講を許可されているのは、「英語で日本文化を紹介するときの定型的なセンテンス」を習得するという教育目的も含まれているので、英語で授業をする。
英語でゼミをすることはできぬが、英語で合気道を教えるのはそれほどむずかしくない。
なにしろ、言うことが少ないから。
合気道とは何かについて一般的なステートメントを述べたあとは、実技だから「そうじゃなくて、こうやるの」で済む。
言葉で説明しなくても、動いてみせればいいんだから、その点は簡単。
それでも途中で一回詰まってしまった。
後ろ受け身の仕方を教えるところで「足の甲を畳につけて」と言おうとして、「足の甲」って英語でなんていうのか出てこなくなってしまった。
しかたがないので、this side of the foot と指さして済ましたけれど(いま辞書を引いたら the instep of the foot と言うと書いてあった。そんな単語、駿台じゃ習わなかった)。
ま、それはさておき。
驚いたことに、杖道部の主将のマサキくんが私が英語で話し出したら、頭を抱えて苦しみ出した。
こ、これは。ジャイアンの歌声のような破壊的効果が私の英語発音には含まれていたのか・・・と思って訊ねると、「英語を聴くと頭が痛くなる」のだそうである。
そういう病気が中等教育には蔓延しているとのこと。
前にゼミでロックの話が出たときに、ジョン・レノンの Imagine を聴くと頭痛や吐き気がしてくるという学生が二人いた。
あの名曲がなぜ・・・と絶句していたら、理由を教えてくれた。
英語の授業の「聴き取り」で、毎週 Imagine でテストをされたからなのだそうである。
紙を配られて、あちこちに(  )が空いていて、カセットで流される曲を聴きながら、その単語を聞き取って埋めてゆくというテストをされていたら大嫌いになりましたという話を聴いた。
そのときは英語の先生の授業の進め方にいささか問題があるな、という程度の感想しか持たなかった。
だが、よく考えたら、この学生たちは Imagine という曲が嫌いなのではなくて、「それが英語の授業を思い出させるから」嫌いなのである。
つまり、英語の授業が嫌いなのである。
『走れメロス』や『銀河鉄道の夜』を読むと、高校の国語の授業を思い出して、頭痛と吐き気に襲われる、というような学生のあることを私は知らない。
他の教科でもそうだと思う。
英語だけが激しい拒否反応をする子どもたちを生み出している。
先日も書いたとおり、英語は中等教育で講じられる全教科の中で「それができるかできないかによって、将来のポストや年収に有意な差が出ることが確実に予測できる唯一の教科」である。
「数学ができんが、何がいかんとや」(@石井聡互)という言葉に数学教師は絶句する可能性があるが、「英語ができんが、何がいかんとや」という生徒に対して、英語教師は英語の必要性をロジカルかつクールに200字で説明することができる。
英語は中学生にさえ、その価値と有用性が周知されているただ一つの教科である。
そして、おそらく「それゆえに」一部の子どもたちは英語の学習に激しい生理的嫌悪を覚えている。
学校教育の場では、「これを勉強すれば金になる」というようなロジックは本来口にされるべきではないということを生徒たちも直感するのである。
その学習動機にある種の「卑しさ」を感じるからこそ、生徒たちは「引く」のである。
私はそうだと思う。
繰り返し申し上げている通り、「学び」においては、努力と報酬を相関させてはならない。
努力と報酬の一元的な相関が明らかであるような枠組みの中では、知性は決して発動しないからである。
「知性」というような抽象的な言葉を使うのはやめよう。
「脳」と端的に言ってもよい。
脳は「自明なもの」には反応しない。
ある行為がなされ、その理由が「わからない」ときに、脳は「なにかと言い訳をする」(@池谷裕二)ために活動を開始する。
まず、「学習努力」があり、なぜそのようなふるまいを自分がすることになったのか、その理由が開示されないときに、人間はそれを正当化するための「理由づけ」を行う。
このときに脳が行う「行為とその根拠の関連づけ」はすぐれて「個人的」な営為である。
それは誰とも共有されない。
けれども、その「個人的関連づけ」によって、子どもは世界の中に幼くとも「自分の条理」を通し、それによってさまざまな事象を個性的な仕方で分節し、世界を自分にとって「親しみのあるもの」に変容させることができる。
教育の目的はそのような言葉で言い換えてもよいかもしれない。
「疎遠な世界を、親しみのあるものに変容させること」
そのためには、子どもたちが「自分の道具」「自分の条理」「自分の言葉」で自分の(どうしてそんなことをするのか、よくわからない)ふるまいを説明するということを習慣として持たなければならない。
「数学ができんが、なにがいかんとや」という叫びは、「どうして世界はこのように成り立っているのか、それを私は理解したい」というはげしい欲望が言わせる言葉である。
だから、その言葉を吐いた少年は、やがて「世界には私には理解できない種類の秩序があり、情熱があり、快楽がある」ということを認める以外に、「数学ができない自分」のアイデンティティーを立てることができないことに気づくことになる。
それでよいのである。
教育課程においては、子どもたちは繰り返し「・・・ができんが、何がいかんとや」と叫ぶことを強いられる。
叫びつつ、泣きながら勉強しているうちに、自家製の、自分オリジナルの、「それを勉強することの意義」を言語化できるようになることもある。
そうならないで、叫ぶだけで、結局勉強しないで、おしまい、ということもある。
それでも、「世の中の仕組みは一筋縄ではゆかない」ということがわかるだけでも立派な学習だと私は思う。
英語の最大の弱点は「英語を勉強することの有用性」が「子どもにでもわかる」ということである。
英語については、「英語ができんが、何がいかんとや」と叫ぶことが許されていない。
だから、子どもたちは英語を学ぶ意義についてのオリジナルな説明を持つことを求められない。
どのような教師も「どうして君は英語が勉強したいの?」という問いに「意外な答え」が返ってくることを期待していない。
そのような教科は「脳」の活動を停止させてしまう。
これは生徒たちの個人的決断にかかわるものではない。
努力と報酬の相関が示された瞬間に、人間は「与えられた判断枠組み」を超え出るという意欲を深く、致命的に殺がれてしまう。
けれども、知性の活動とは、極言すれば、「与えられた判断枠組みを超え出る」自己超越の緊張以外の何ものでもないのである。
--------