電話取材で英語社内公用語論についてコメントを求められる。
必ず失敗するだろうと予言する。
英語を社内公用語にするということは、英語運用能力と年収や地位の相関性が高まるということである。
とりあえず英語ができない人間は、どれほど仕事ができても、幹部には登用されない。なにしろ会議に出ても、みんなが何を話しているのかわからないんだから。
そのような人々は会社を移らざるを得ない。
「仕事はできるが英語はできない」という人間を排除して、「仕事はできないが英語はできる」という人間を残した企業がそれによってアクティヴィティを高めるであろうという見通しに私は与さない。
現に、英語運用能力と「報償」の相関をダイレクトなものにしたことによって、日本人の英語運用能力の劣化は生じたと私は考えている。
現在の日本の大学生の英語運用能力の劣化は著しい。
たぶん現在、日本の大学入学生の半数近くは中学二年程度の文法知識さえ持っていない。
これは個別の英語教師の教育力の問題ではなく、現在の英語教育が構造的に「英語嫌い」を作り出していると考える方が合理的である。
英語は中学校で教えられる教科の中で、もっともその実用性・有用性が確かな教科である。
英語ができる子どもとできない子どもでは、中学生の段階ですでに将来の年収に大きな差が出ることが高い確度で予測される。
そのような教科は他には存在しない。
因数分解ができなくても、古文が苦手でも、跳び箱が飛べなくても、料理が作れなくても、それによって、これができる人間と「将来年収に大きな差がつくだろう」という予測を立てる中学生はいない。
けれども、英語だけは別である。
英語は、それが「できる子ども」と「できない子ども」の間で、将来の学歴や年収に有意な差がつくことが予測される唯一の教科である。
ちゃんとやれば「いいこと」があり、やらなければ「よくないこと」が起こる。
そのような「有用性の高い教科」に対する学習の動機づけが、他の教科に比してむしろ弱いという事実はどうやって説明できるのか。
私はこれまでも繰り返し、学びにおいては「努力と報酬の相関」を示してはならないと書いてきた。
これだけ努力すると、これだけ「いいこと」があるよというふうに事前に努力と報酬の相関を開示してしまうと、子どもたちの学びへの動機づけは歴然と損なわれる。
学びというのは、「謎」によって喚起されるものだからだ。
自分の手持ちの度量衡では、その意味も有用性も考量しがたい「知」への欲望が学びを起動させる。
中学で教えるすべての教科の中で、英語は唯一例外的に「その意味も有用性も、中学生にもわかるように開示されている」教科である。
そのような教科の学習意欲がきわだって低い。
これを「おかしい」と思う人はいなかったのだろうか。
ほとんどの子どもたちは中学生二三年の段階で、英語学習への意欲を、取り返しのつかないほどに深く損なわれている。
なぜ、その理由を誰も問わないままにすませてきたのか。
英語力が低下していると聴いた政治家や教育評論家や役人は、「では英語ができる人間への報酬をさらに増額し、英語ができない人間へのペナルティをさらに過酷なものにしよう」という「carrot and stick」戦略の強化しか思いつかなかった。
それによって子どもたちの英語嫌いはさらに亢進した。
日本の子どもたちの英語力はそのようにして確実に低下してきたのである。
どこかで、この悪循環を停止させねばならない。
というときに、英語を社内公用語にするというのは、「努力と報酬の相関」をさらに可視化し、さらに強化することである。
子どもたちへの「英語をちゃんと勉強しないと、将来路頭に迷うことになるぞ」というアナウンスメントはさらに低年齢化し、さらに脅迫的な口調のものになるだろう。
そして、ますます英語嫌いの子どもたちが増えてゆく。
日本の中学高校の英語科教員たちは、これ以上英語嫌いの子どもを増やさないためにも、「英語の社内公用語化反対」の声明を発表すべきだろうと私は思う。
どうすれば子どもたちが「英語好き」になるか。
それを考えて欲しい。
自分が子どもだったときのことを思い出せば、その処方はだれにもわかるはずだ。
それを学ぶことによって、幼児的なものの見方から抜け出して、風通しのよい、ひろびろとした場所に出られるという期待が人をして学びへと誘うのである。
「それを勉強することで、あなたは努力と報酬が相関し、能力と年収が精密に対応する雇用関係にはめ込まれることになるでしょう」と予告されて、嬉々として勉強する子どもがどこにいるだろう。
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(2010-07-21 18:32)