フリーズする政治

2010-07-16 vendredi

たいへん興味深いことであるが、参院選前に「予測」を求める寄稿や取材依頼はたくさんあったのに、選挙が終わってしまうと、「総括」を求める仕事がさっぱり来ない。
むろん、私の「民主微減、自民大敗」という予測がはずれてしまったので、「政治向きのことをウチダに訊いてもつまらん」という合意形成ができたのかも知れない。
けれども、予測がはずれたのはおおかたの政治評論家もいっしょである。
私の知る限り、「民主大敗、自民大勝」という予測を掲げていた人はいないようである(自民党の政治家は別だが、それは「主観的願望」と「客観的情勢判断」の意図的な取り違えにすぎない)。
けれども、これほど事前の予測がはずれたことについて、「なぜ、はずれたのか」のアカウントを求めることはたいせつなことだ。
「どうして予想がはずれたのですか」と誰も訊きに来ないので、自分で考えてみることにする。
参院選の前に私がいくつかの取材で申し上げたのは、「鳩山政権末期の20%の支持率が、菅首相に代わったところで66%に跳ね上がるのは、論理的におかしい」ということであった。
菅直人は鳩山内閣の副総理であり、財務相であった。
彼は当然前内閣のもろもろの「失政」について、連帯責任をとらなければならない立場にある。
だとすれば、前政権のスタッフをほぼそのままのかたちで引き継いだ新内閣の支持率はせいぜい30%台にとどまってよいはずである。
いや、連帯責任を取らなくてよいのだという意見に基づいて、60%を超える支持を与えたというのがほんとうなら、その判断を基礎づける論拠は一つしかない。
それは「菅副総理・財務相は鳩山総理の政治的決断にほとんど関与できなかった」ということである。
だが、それほどまでに政治的影響力のない政治家に、「表紙を付け替えた」だけでいきなり6割を超える高い信認がなされるということは、論理的にはありえない。
とすれば、60%の支持率は、菅新総理の政治姿勢や政治理念への支持に対してのものではないとと考えなければならない。
ほとんど同じ陣容の内閣に世論調査は前週の3倍の支持率を与えた。
私はこの「無根拠に跳ね上がった支持率」を薄気味悪いと思った。
私の知る限り、この数字が「薄気味が悪い」と言った人はいなかった。
新政権への期待がそれだけ高いということだ、とメディアは説明した。
そして、民主党執行部も同じ判断に与して、これを好機と選挙の前倒しに踏み切った。
そして、あとはご案内のように、菅首相の消費税をめぐる提言と食言によって、民主党支持率は急落し、惨敗という結果を招いた。
けれども、よく考えると、この説明もおかしい。
消費税10%はそもそも自民党の掲げた政策である。
世論が消費税導入に反対なら、自民党も民主党と同じく惨敗して然るべきである。
しかし、有権者は自民党に大勝を与えた。
ということは、民主党批判票は「消費税導入への反対票」ではなかった、ということになる。
では、何か。
メディアが挙げるのは「いちど消費税導入を言いながら、世論のバックラッシュに遭遇すると、じりじりと後退した、菅首相の一貫性のなさ」というものである。
だが、「世論の動向に対して敏感に反応して、一度掲げた政策を撤回する」というのは、私は政治家の資質としてはむしろ良質なものだと考えている。
過ちを改むるに憚ることなかれと古諺にも言う。
同僚政治家が「あいつは有権者の顔色ばかりうかがっていて、一貫性がない」と非難するのはわかる。
けれども、有権者が「あの政治家は有権者の顔色をうかがって政策を転換するので、信用できない」と言っては話の筋が通るまい。
ふつう、有権者は「有権者の意向に配慮しない」ということで政治家を批判するものだからだ。
これらの選挙民の動向から言えることは、「有権者の政治家の良否の判断基準には、なんら一貫性がない」ということである。
メディアは「菅直人のダッチロール」を論難するが、私はむしろ「有権者のダッチロール」が問題であると思う。
これはきわめて興味深い心理学上のトラップである。
「私の言うことを聴け」と命じておいて、その指示に従うと「なぜ私の言うことに唯々諾々と従うのだ。お前には自我というものがないのか」と難詰し、それではというので命令を聞かないと「なぜ私の言うことに従わない」といって難詰する。
これはご存じ「ダブル・バインド」である。
親の指示に従わないと罰せられ、従っても罰せられるという「出口のない」状況に長く置かれると、子どもはメッセージの解読に困難を来すようになり、やがて精神分裂病を発症する、というのがグレゴリー・ベイトソンの「ダブルバインド」仮説であった。
他人をダブルバインド状況に追い込むのは、別に特殊な話ではない。
親が子に、教師が生徒に、上司が部下に、先輩が後輩に、監督が選手に・・・あらゆる場面でダブルバインドは「活用」されている。
例えば、「どうして、こんな失敗をしたんだ」という問いには回答することが心理的にはむずかしい。
「これこれこういう理由で失敗しました」と答えれば、「なぜ、それがわかっていながら失敗した」とさらなる叱責を受けるし、「わかりません」と答えれば「じゃあ、お前はこの失敗から何も学んでおらず、この先も同じ失敗を続けるつもりなんだな」とさらなる叱責を受けるからである。
どう答えても状況がさらに悪化することが確実であるとき、私たちは黙り込んで「嵐が過ぎるのを待つ」。
この「黙り込んで嵐が過ぎるのを待つ」ことしかできないマインドを構築するのがダブルバインドの狙いである。
その意味で、ダブルバインドはきわめて政治的な仕掛けなのである。
それは仕掛ける方を「主人」に、仕掛けられる方を「奴隷」に、政治的に非対称な関係に固定化するための装置である。
それが子どもであれ、老人であれ、病人であれ、どれほど現実的に非力な人間であっても、ダブルバインドを仕掛けられると、どのような世俗的強者も、一時的に「フリーズ」してしまう。
だから、自分を相対的弱者であると感じている人間、あるいは今以上に大きな敬意や愛情を向けられて然るべきだと感じている人間は、しばしば無意識的にダブルバインドを仕掛ける。
私の眼には、今般の参院選の有権者たちは、全体として「ダブルバインドを仕掛ける側」としてふるまっているように見える。
鳩山前政権の支持率をあそこまで下げておいて、鳩山前政権の「居抜き内閣」には法外な支持率を与え、世論調査では消費税率アップに賛成しておいて、消費税率について踏み込んだ政策提言をしたとたんに「消費税導入反対」に切り替え、有権者の意向に配慮しないと不満を言い、有権者に媚びるとは政治家としての矜恃がないと非をならす。
これはダブルバインド・セッティング以外の何ものでもない。
そう考えると、日本の有権者が何をしようとしているのかを伺い知ることができる。
彼らは政治過程を「フリーズ」させようとしようとしているのである。
政治家たちを「黙って嵐が過ぎるのを待つ」ようなマインドセットに追い込むことを目指しているのである。
もちろん、個々の有権者に訊ねてみれば違うことを答えるだろう。
けれども、総意としては「政治過程のフリーズ」を求めているのである。
衆院与党が3分の2に達しない「真性ねじれ国会」とは、多くの識者が指摘するとおり、「何も決まらない国会」である。
ダブルバインドの呪縛にかかった国会である。
大勝した自民党は、国会で攻勢に出て、対米外交や税制改革で民主党に大幅な譲歩を求めるかもしれない。
でも、そのときに、たぶん自民党支持率は一気に下がるだろう。
自民党の政治家たちは、「いったい、有権者は私たちに何をしてほしいのか?」と困惑して自問することだろう。
政治家たちがどうしていいかわからないで立ち尽くすこと。
それが、今回の選挙で国民が総意として選んだ政治の姿なのである。
一昨年、アメリカではオバマ大統領が「Change」を呼号して歴史的勝利を収めた。
けれども、オバマ大統領の「変革プログラム」に対してアメリカの有権者は頑強な抵抗を示した。
「変える」と訴えて選ばれた大統領が実際にシステムを変えようとすると「変えるな」という激烈な抵抗が噴き上がってくる。
オバマ大統領はなすことなく、立ち尽くしている。
「国民はいったい何を望んでいるのか?」という問いを政策レベルで論じてもたぶん意味がない。
「『国民はいったい何を望んでいるのか?』という問いを政策レベルで論じてもたぶん意味がない」ような事態を出来させることを通じて、国民はいったい何をめざしているのか、と問う方がたぶん合理的である。
なぜ日本に限らず、先進国の有権者たちは「政治過程が凍結すること」を望むようになるのか。
これは十分に生産的な問いになりうると私は思う。
現に、私自身がまさに無意識のうちにそう望んでいるように思われるからである。
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