猛暑日が続くが、大学はまだ一週間授業がある。ほかの大学の中には8月中旬まで授業をするところがある。
なぜ、このような劣悪な気象状況の下で授業をしなければいけないのかというと、文科省が「半期15週必ず授業をやること」と厳命してきたからである。
従わなかった場合には助成金削減などのペナルティをちらつかせているので、どこも仕方なく国民の休日を開校日にしたり、入学式の週から授業を始めたり、夏休みを短くしたりして対応している。
なぜ、授業時間が増えたかというと、理由は簡単で、「日本人の学力が低下したから」である。
それに対して政治家と財界から文科省にうるさく「いったい教育行政はどうなっているのか」と譴責がなされる。
文科省としても、何かをしないと恰好がつかないので、とりあえず「授業時間を増やせ」というきわめて頭の悪いソリューションを(「頭悪いなあ」とたぶん本人たちも思いながら)大学に通達したのである。
もちろん、猛暑日に授業をしたくらいで日本の大学生の学力がめきめき向上するようなシンプルな問題なら、もともと学力は低下などしていない。
私が大学生だった 40 年前、教養課程にいた3年間に私が出た授業の時数はたぶんトータルで100時間くらいである。年間30時間。教室に顔を出すのは週に1回くらいである。
ほとんどの講義科目は最初の日と試験の日にしか教室に行かなかったので、教師の顔も知らなかった。
別に私が特殊というわけではなく、おおかたの学生はそんなものであった。
にもかかわらず、当時の学生たちの方が当今の学生たちよりも学力ははるかに高かった。
ということは、授業時数と学力のあいだにはあまり相関関係がない、ということである。
人を学びに向かわせるのは知的な向上心であり、さらに言えば知的な「飢え」である。
私たちは大学が用意する「定食」にはほとんど食欲を示さなかったが、その代わり別の場所でがつがつと知的資源を貪り喰っていた。
いまの大学生たちには、「知的な飢え」が足りない。
私はそれが悪いと言っているのではない。
そういうものだ、と申し上げているのである。
私たちが子どものころにがつがつと勉強したのは、端的に日本が貧しい国だったからである。
事態はアメリカでもEUでも変わらない。
がつがつ勉強するのは、どこでも移民とその二世三世たちである。
「中進国マインド」をもっている子どもはよく勉強する。
「先進国の子ども」にはもうそういう向上心がない。
属人的な決意の問題ではなく、構造的に「ない」のである。
「勉強なんかしなくていいよ」「勉強なんかするなよ」というネガティヴなイデオロギー圧が瀰漫しているので、個人のレベルではよほどの理論武装がないと、これに抗しきれないのである。
これはしかたがない。
祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きありと古歌にもいうように、先進国になったら、次の仕事は「没落すること」だからである。
「没落しないぞ」と必死になって考案するすべての対抗措置がひたすら没落を加速する方向にしか作用しないように思考そのものが呪縛されていること、それが没落しつつある国の宿命なのである。
なんとかせねば、とむきになればなるほど、どんどん泥沼に沈むのである。
こういうときは、黙って「ふむ、困ったものですな。ま、ご一献」などと清談などして過ごすのがつきづきしいのであるが、みんな浮き足だって「救国の起死回生策」などを考案せねばならぬと興奮するものだから、事態は悪化するばかりなのである。
日本は亜熱帯なんだから、夏は休みましょうよ、ほんとに。
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(2010-07-20 12:12)