「開かれた国」であることのコスト

2010-07-08 jeudi

経済連携協定に基づいて来日し、今春看護師国家試験を受験したインドネシア人、フィリピン人の受験者254名の合格者は3名だった。
合格率1.2%。
不合格理由は日本語で試験が課せられているからである。
日本語話者は90%が合格する。
外国人看護師・介護士の受け容れがアジェンダにのぼったのは、小泉政権のときである。
日本製品の輸出促進のための関税撤廃を進める見返りとして、フィリピンのアロヨ大統領から要請されたことに端を発する。
日本製品を売りたいという日本側のニーズと、海外に雇用機会を拡大したいフィリピン側のニーズの「等価交換」から話は始まった。
仙谷由人官房長官は「開かれた国」という国際イメージの定着のためにも、自国語・英語による受験機会への拡大を提言している。
だが、厚労省は、医療介護の現場で言語的コミュニケーションは死活的に重要なので、日本語で試験を合格するという線は譲れないとして、これに抵抗している。
昨日に続いて「言語障壁」の話である。
この話も一筋縄ではゆかない。
商品・サービス・人間がボーダーレスに行き来する「グローバル化」に早急に対応しなければならないという内外からの圧力には応えなければならない。
だが、「グローバル化」がもたらす損失は、それによって得られる利益を超えることがある。
計量的な吟味が必要であると私は思う。
一時的な「ニーズ」によって大量の移民労働者を受け容れたヨーロッパ諸国はどこでも深刻な問題を抱え込んだ。
私たちが成功した民主主義のモデルのように見なしているデンマークでも何年か前にムハンマドの風刺画を掲載して、世界のイスラム教徒の逆鱗に触れた事件が起きた。
その背景には、イスラム系住民の急増と、それに反発するナショナリスト政党の対立がある。
デンマーク政府は苦肉の策として、難民や家族呼び寄せでデンマークにやってきた人々が母国に引き上げた場合に帰還手当として、10万クローネ(180万円)を支給する政策を立案した。それだけ払っても地方自治体のコストは大幅な削減されるという。
どこまで本気かわからないが、そのような奇策がまじめに議論されるほどにデンマークが「煮詰まっている」ことはたしかである。
これに類したことはスウェーデンでも、ドイツでも、フランスでも起きている。
安価な労働力を求めてボーダーを開放した後に、経済成長が鈍化すると、ホスト国家に政治的にも文化的にも一体感を持てぬままに、高齢化し、福祉予算に大きな負担をかけることになった移民たちが大量発生する。
そんなことが 60 年代から繰り返されている。
アメリカも例外ではない。
移民たちが建国した国であるにもかかわらず、先に定住した移民たちは後からやってきた移民に対して激しい差別を繰り返した。
移住してきた順に、最初はアイルランド系が、ついでイタリア系、東欧系、ユダヤ系、アジア系が排斥の対象となった。むろん先住民と黒人は一貫して差別されてきた。
アメリカにおける移民排斥がそれでも国民国家の解体的危機にまで至らなかったのは、「フロンティア」があったからである。
移入する人口を受け容れるだけの未開の荒野があったので、排斥された移民集団には「とりあえず西をめざす」というソリューションが残された。
外国人労働者の受け容れをスマートかつ人道的に行っている国を私は知らない。
もちろん、私が知らないだけでうまくやっている国もあるのかもしれない。
だが、それであれば、その国の成功事例を模すべきだとメディアや「政治的に正しい」知識人がすでに言い立てているはずである。
残念ながら、私はまだそのような事例について語られるのを聴いたことがない。
外国人労働者の受け容れをスマートかつ人道的に完遂した先行事例を私たちは知らない。
その事実を確認するところから、この問題についての議論は始めるべきだろう。
「政治的に正しいことだから」とか「とりあえず金になるから」とか「とりあえず人手が足りないから」というような理由でこの問題を片づけることはむずかしい。
私は日本が「開かれた国」になることには賛成である。
賛成であるというより、それ以外に国際社会で生きてゆくことはできない。
けれども「開かれた国」であり、かつ住民たち誰にとっても「住みやすい国」であるためには、私たちが想像している以上の努力が必要だということは事前にアナウンスすべきだと思う。
私たちのうちの相当部分が「成熟した公民」になる以外に、その要件を満たすことはできない。
「成熟した公民」とは、端的に言えば、「不快な隣人の存在に耐えられる人間」のことである。
自分と政治的意見が違い、経済的ポジションが違い、宗教が違い、言語が違い、価値観も美意識も違う隣人たちと、それでもにこやかに共生できるだけの度量をもつ人間のことである。
仮に隣人たちが利己的にふるまい、公共の福利を配慮しないようであっても、そのような隣人たちを歓待することが「公民の義務」であると思える人間のことである。
そのような公民が一定数必要である。
つねづね書いているように、「公民的成熟」に達した市民が全体の15%いれば、あとの85%が「自己利益しか求めない子ども」たちであっても、社会システムは機能すると私は思っている。
それくらいにゆるやかな制度設計でなければ、とても人間は生きて行けない。
だが、その15%という目標値を私たちの社会はすでに失っている。
概算で7%程度まですでに「公民度」は低下していると私は見ている。
この数値をとりあえず2桁に戻すことが国民的急務である。
すでに下がりつつある「公民度」を放置して、「障壁」を取り払うことは、前例を見る限り、「排外主義的極右勢力の急伸」以外の政治的未来をもたらさないであろう。
私はそのような政治状況の到来を喜ばない。
それゆえ、「開かれた国」であることのコストとベネフィットについての、リアルでクールな議論の必要を痛感するのである。
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