『Ane Can』という雑誌の取材を受ける。
『Camcan』のお姉さんヴァージョンである。
このところ女性誌からの取材が多い。
どうしてだろう。
わからない。
インタビュイーの選考は先方のご事情なので、私の与り知らぬことである。
お題は「愛と自立」
う〜む。
「愛をとるか、自立をとるか」でお悩みの20代後半女性にアドバイスを、というご依頼である。
端的には「仕事をとるか、結婚をとるか」ということのようである。
つねづね申し上げているように、これは問題の立て方が間違っている。
仕事も結婚も、どちらも人間が他者と取り結ぶさまざまな interdependent なかかわりの一つであり、どちらも人間が生き延びるためには「あったほうがよい」ものである。
「仕事もない、配偶者もいない」というのがワーストで、「おもしろい仕事もあるし、すてきな配偶者もいる」というのがベストであり、その間に無数のグラデーションがあるだけで、仕事と結婚は排他的な選択肢ではない。
にもかかわらず、このような二者択一的な問いが前景化する。
当然それなりの理由があるはずである。
おそらく「オレをとるのか、仕事をとるのか、どちらかに決めろ」というような無法なことを言う男と付き合っているからではないかと推察される。
この問いに答えること自体はむずかしいことではない。
というのは、このような問いを発する男は、その当の事実によって「バカ」であることが明らかだからである。
「オレをとるか、仕事をどるか、どちらかに決めろ」というようなことを言う男に対しては「仕事」と即答するのが正解である。
バカといっしょにいても、この先、あまりよいことがないからである。
だから、「え、やだ〜。バカでもいいの。そんなすぐにはわかれらんないし〜」という方には私の方からは別に言うべき言葉はない。
かつて「私と仕事と、どっちを愛しているの?」と訊くのは専一的に女性であった。
ただし、女性にとってこれはあくまで修辞的な問いであり、この問いの含意はストレートに「そんな『くだらないこと』してないで、私と遊びましょ」というラブリーなお誘いであった。
かかるオッファーに対して回答を逡巡するような男は再生産機会からただちに排除されてしまうわけであるから、答えは「もちろん君さ」以外にはありえない。
それに、男が夢中になってやっていることの過半は、分子生物学的スケールで見るならば「くだらないこと」以外の何ものでもないのである。
そのことを定期的に男たちに確認させるのはまことに時宜にかなったことと言わねばならない。
しかるに、男性が女性に向ける「オレと仕事とどっちをとるんだ」という問いには、女性が「私と仕事のどっちを愛しているの?」と訊くときにこめられたエロス性や遊戯性がほとんど感じられない。
たぶんこれは修辞的には問いのかたちをとっているが、「オレのエゴの撫で方が足りないぞ、おい」という幼児的な訴えなのである。
だから、「もちろん、あなたよ」などと宥和的な回答を以てしても、男は「ふん」と背中を向けて、「いまさら、ご機嫌とったって、遅いんだよ、バカ」的な対応しかせぬであろう。
幼児的な欲求が、幼児的に「だだ」をこねることで満たされた場合、人はその成功体験に固着するから、幼児性はさらに強化されることになる。
つまり、「愛と自立」の背景には、見た目よりもさらに深刻な「真の問題」が伏流していたのである。
それは「若い男たちがとめどなく幼児化している」という現実である。
『Ane Can』の特集は、本来は「幼児化する男たちをどうしたらよいのか?」というにべもないタイトルになるべきだったのである。
だが、ガールフレンドや妻がそんなタイトルを表紙に掲げた雑誌を携行しているところを見た場合、男性はその幼児性をさらに亢進させて泣きながら走り去ることは明らかであるので、販売戦略上、そうもゆかなかったのである。
日本の男性は急速に幼児化している。
これは動かしがたい事実である。
男子を成熟に導く「通過儀礼」的な人類学的装置が根こそぎ失われたためである。
30 年ほど前までは左翼の政治運動というものがあり、これがいわば本邦における最後の大衆規模での「通過儀礼」であったかに思う。
当否は別として、左翼の政治運動はその参加者に「子ども時代の価値観を全否定すること」を要求したからである。
ところが現代では、うっかりすると「小学生時代の価値観」をキープしたまま中高年に達するものさえいる。
日本の男子が血肉化してる「小学生時代の価値観」とは「競争において相対優位に立つことが人生の目的である」というものである。
これまでも繰り返し説いてきたことだが、「同学齢集団のコンペティションでの相対優位」が意味をもつのは、「ルールがあり、レフェリーのいる、アリーナ」においてだけである。
例外的に豊かで安全な社会においては、「競争に勝つ」ことが主要な関心事になることができる。
しかし、人類史のほとんどの時期、人類は「それほど豊かでも安全でもない社会」を生き延びねばならなかった。
そういった状況においては「競争において相対優位をかちとる能力」よりも、「生き残る能力」の方が優先する。
「競争に勝つこと」よりも「生き残る」ことの方がたいせつだということを学び知るのが「成熟」の意味である。
現代日本男子の幼児化は、深刻な社会問題である。
しかし、それを俎上に載せるべき社会学者たちも心理学者たちもジャーナリストたちも、軒並み「幼児化」してしまったので、それが「深刻な社会問題である」という事実そのものが意識化されないままなのである。
怖いですね。
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(2010-06-23 14:44)