成功について

2010-06-18 vendredi

イギリスに留学している学生から、質問がメールで届いた。「成功」についての論文を準備していて、各界のひと 50 人にアンケートして、その中の一人に指名されたのだそうである。
若い人が外国でがんばって論文を書いているのを支援するのは、大人の仕事のひとつであるから、質問に回答を書いた。
しかし、趣旨が今一つよくわからない。
論点はいくつかある。

一つは、「成功」には客観的指標があるのかどうか。
一つは、「成功」するには何をすればいいのか。
一つは、「みんなが成功する」ということはありうるのかどうか。

むずかしい問いだと思いませんか?
とりあえず、第一問にはすぐに答えられる。
「成功に客観的指標はない」
例えば、「年収2000万円を以て成功者とみなす」といった外形的ルールを定めた場合、年収1990万円の人は納得せぬであろう。
「テレビ出演年20回以上」でも「一部上場企業の部長以上」でもなんでもいいけれど、どれを定めても「ふざけるな」と怒り出す「自称・成功者」が五万と出てくるであろう。
第二の質問。
成功するには何をすればいいのか。
何しろ外形的指標がないのだから、目標設定のしようがない。
せいぜい「できるだけたくさんお金を稼ぐ」「できるだけたくさんメディアに露出する」「できるだけ偉くなる」くらいである。
そういうことを考えている人間がまわりにいたら、「まあ、がんばってください」という以外にコメントのしようがない。
第三の「全員が成功するということはありうるのか?」というの質問はおもしろい。
もちろん答えは「ノー」である。
というのは成功者が「私は成功者だ」という自己認識をもつとしたら、それは、「私は非成功者だ」と思っている人間の「できることなら、この人と立場を入れ替えたい」という羨望を実感した場合だけである。
「私は成功者だなあ」としみじみ感じるということはあまり考えられない。
それは「金持ち」の定義が「金のことを考えずに済む」だからである。
「歯のいい人」は歯について考えずに済む。視力のよい人は目について考えずに済む。
同じ理屈で「成功者」は「成功だの失敗だのいうことについて考えずに済む」人である。
だから、その人がしみじみと「ああ、私は成功者でよかったなあ」と思うのは、金持ちが貧乏人の痛ましい生活を垣間見た場合や、歯の丈夫な人が「インプラント手術は痛いよお」と泣いている人間の話を聴いた場合と同じように、「私は成功できなかった」とぐちぐち泣訴する人間の話を聴いているときだけである。
「成功している人間」には「私は成功している」という積極的実感はない。
「私は成功していない」という人間にはその実感がある。
「非成功」はリアルに受肉した観念であるが、「成功」は「非成功者からの『成功者』とみなされている」という迂回的なしかたでしか把持されない。
この片務性が興味深いと私は思った。
ただ、「歯のいい人」を見て、その歯を抜いて自分の歯と入れ替えたいと思う人間はいないが、成功者を見て、「できることなら立場を入れ替りたい」と思う人間はいる。
それは社会的条件が整った場合には(天変地異に遭遇したり、内戦や革命が起きたときには)実行に移される可能性がある。
そういうタイプの羨望がはらむ暴力性について知りたい人は魯迅の『阿Q正伝』を徴されるとよろしいかと思う。
だから、「成功」と「幸福」は一致しない。
「私は成功したが、幸福ではない」という文も「私は成功していないが、幸福である」という文も、どちらもふつうに有意味の文だからである。
「幸福」についての物差しはあくまで個人の主観的印象である。だから、「私は幸福である」という言明は他人が否定しても、私が宣言すれば成立する。
この言明を否定する権利は他者にはない。
「あなたが幸福であるはずがない」という反論を挙証することは現実的に不可能である。
しかし、「私は成功者である」という言明は他者の介入ぬきには存立しえないから、「あなたは成功者ではない。現に私はそう思っていない」という反論によって、成功の言明は否定可能である。
こんな例を考えればわかる。
人類が死滅して、世界最後のひとりになった人間がいたとする。
彼が「私は幸福な人間だ」という自己評価を下すことはありうる。
けれども、彼が「私は成功者である」と自己評価することはありえない。
そこには「あなたは成功者だ」と証言してくれる他者がもう存在しないからである。
「幸福」ももちろん他者依存的である。
けれども、「幸福感」が志向する他者はもっとずっと数が多い。
例えば、死者からの贈りものによって幸福感を覚えるということはありうる。
死んだ親の気遣いに、死後ずいぶん経ってから気がついて、「ああ、何とありがたい親だったのか」と感謝の念を覚えるなどというのは少しも珍しいことではない。
女性が懐妊して母になる予感に幸福感を覚えた場合、彼女を幸福にしたものはまだこの世界に存在していない。
だから、世界最後の男になった人が「死者たち」が彼に遺贈してくれたもの(書物や音楽や美術作品や食糧や薬品など)について「ありがとう」とつぶやくことはありうる。
それは、「幸福」には「もう存在しない人間」も「まだ存在しない人間」も、「同時代に存在するのだが会ったことのない人間、私のことを知らない人間」も関与することができるからである。
でも、「成功」はそうではない。
そこには、「できることなら彼と立場を入れ替えたい」と暗い情念をたぎらせている他者がどうしても必要である。
だから、なぜ人々が「幸福」について語るよりも「成功」について語ることを好むのか、私には依然としてよくわからないのである。
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