越くんとリーダーシップについて話す

2010-05-09 dimanche

越くんがやってくる。
越くんは2001年にブザンソンで知り合った青年である。
いまは全日空商事にお勤め。
9年前、恒例のフランス語研修、ブザンソン駅で TGV を降りると、ブルーノくんと大柄のアジア人の青年が私たちを迎えてくれて、手際よく学生たちのトランクを列車からおろしてくれた。
なんとなくブルーノくんの知り合いのアジア圏の人だろうと思って、フランス語でお礼を言って並んで歩いていたら、「ぼく日本人です」と言ったのでびっくりした。
青山学院が CLA に派遣した長期留学生のメンバーのひとりで、もうブザンソンに長い。
私たちがブザンソンに滞在していた2週間のあいだ、毎日のようにオテル・メルキュールに遊びに来て、あれこれ学生たちの世話を焼いてくれて、夜はいっしょにご飯を食べ、カフェで遅くまでおしゃべりをした。
やはり青学からの留学生だったユリちゃんと越くんのふたりはブルーノくんとの合気道の稽古にも参加してくれた。
ユリちゃんは日本に帰ったあと、自由が丘道場に入門して、私の「妹弟子」というものになったのである。
越くんは帰りのパリまで同行してくれて、9月11日の夜にサンミシェルのカフェで(前回、東川さんと黒田くんとカルバドスを飲んだのと同じカフェ)また日本で会おうねと約束してお別れしたのであった。
(そしてカフェから帰ったらテレビの臨時ニュースで同時多発テロのことを知ったのである)。
ちょうどその日に、朝から WTC 内のオフィスにいたのだが、なんだか急に外に出たくなって、ビルの104階から地上まで降りたところでビルに飛行機が衝突したという、たいへん危機センサーのよい人を父親に持つ女性が今回の越くんの神戸旅行にご同行されていた。
うちの奥さんと四人で、元町の「グリルミヤコ」へ。
お店が北野から元町へ移転してからまだ一度もお訪ねしていなかった。
ひさしぶりに神戸牛のヘレカツが食べたくなったので、遠来のお客さんをお連れしたのである。
その話題から危機センサーをはじめとする人間の潜在能力について語る。
危機を察知し、無意識のうちにそれを回避する能力は生物の生存本能のうちもっとも有用なものだが、その生理学的・解剖学的な仕組みはわかっていない。
でも、それを高めるための訓練システムがどういうものかはわかっている。
センサーの感度を鋭敏に保つ方法は経験的には一つしかない。
それは「不快な情報にはできるだけ触れない」ことである。
不快な情報は不快であるから、私たちはその入力を遮断するか、(うるさい音楽に対してするように)「ヴォリュームを絞る」ようにする。
つまりセンサーの感度を意図的に下げるのである。
それによって、外界からの不快な入力は「カット」される。
けれども、それは同時に危機シグナルに対するセンサーも「オフ」になるということである。
「不快な」シグナルといっしょに「危険な」シグナルもカットされてしまう。
『おしゃれ泥棒』でピーター・オトゥールがやったように、繰り返しアラームが誤作動すると、警備員はアラームそのものを切ってしまう。泥棒はそれからゆっくり仕事にとりかかる。
ここから導かれる実践的教訓は「アラームがじゃんじゃん鳴るような環境には身を置かない」ということである。
「不快な入力」が多い環境にいると、人間は鈍感になる。
鈍感になる以外に選択肢がないのだからしかたがない。
けれども、それによって危機対応能力は劇的に劣化する。
子どもは、できるだけ快適な感覚入力だけしかない、低刺激環境で育てる方がいい、というのは私の経験則である。
たしかにそうやって育てると「ぼや〜っとした」子どもにはなるだろうけれど、危機回避能力は身に着く。
そういう人は無意識のうちに「もっともリスクの少ない道」を過たず選択するので、人々はしだいに「この人についてゆけば安心」ということを学習する。
戦場におけるもっとも信頼される指揮官は「銃弾が当たらない人」である。その人のあとにぴったりついてゆけば、弾も飛んでこないし、地雷も踏まないし、道に迷って敵軍のど真ん中に出ることもない。そういうことが経験的に知られている将校のあとに、兵士たちはかたまってついてゆくようになる。その一挙手一投足を注視するようになる。
それがその語の本当の意味での「リーダーシップ」であると私は思う。
古来、伝説的な勲功を誇る軍指令官が「ぼんやりした容貌」の人であったと言われるのはゆえなきことではあるまい。
現代の「エリート教育」と言われるものはそのほとんどが(すべてが)「不快なストレスが加圧されたときに、それに対して鈍感になれる力」を涵養するプログラムである。
しかし、「ストレス耐性の強い個体」は多くの場合、危機センサーが不調である。
そのような人間はタフな心身の能力を活用して死活的危機をひとりだけ生き延びることはできても、あとに従ってくる人たちを生き延びさせることはできない。
人を従えて進む人間に必要なのは「危機に遭遇しないですむ道を選ぶ」力である。
そのような能力の少なくともベースの部分は低刺激環境においてしか育むことができないと私は思う。
でも、当今の「リーダーシップ論」において、そのようなことを語る人はいない。
というような話をおふたりはたいへん興味深そうに聴いている。
たちまち2時間半ほど経ってしまった。
おふたりともまた遊びに来てくださいね。
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