困ったときは老師に訊け

2010-05-10 lundi

文學界の鼎談で、日帰り東京ツァー。
行きの車中で、週刊文春の普天間基地問題特集のための原稿書き。
同じ話を繰り返すのに、いいかげん飽きてきた。
私が言っていることは九条論のときからほとんど変わっていない。
それは私たちの眼に「解きがたい矛盾」と見えているものは、「ほんとうの矛盾」から眼をそらすためにつくりだされた仮象の矛盾だということである。
九条と自衛隊は矛盾していない。
それはアメリカが「日本を無害かつ有用な属国たらしめる」という政治史文脈の中で選択された。
アメリカにとってこの二つの制度は「二個でワンセット」のまったく無矛盾的な政策である。
それを日本人たちが「相容れぬものである」として、護憲派・改憲派に分かれて互いに喉笛に食いつきそうな勢いで争っているのは、いったんそれが「実は無矛盾的である」ということを認めてしまえば、「日本がアメリカの軍事的属国である」ことを認めざるをえないからである。
真の矛盾は日米関係にある。
そこに「矛盾はない」と強弁し、日米関係は良好に推移しており、すべての問題は国内問題であり、それゆえすぐれた為政者さえ登場すればハンドル可能であると人々は信じようとしている。
私はそのような無理な心理的操作にも「一理はある」と思っている。
現にそのように問題を先送りすることによって(つよい言い方をすれば、「狂気を病む」ことによって)、日本は 65 年間の平和と繁栄を手に入れた。
私はそれをかつて「疾病利得」と呼んだことがある。
利得は利得であり、みごとな達成である。
けれども、それが「疾病」を代償に手に入れたものであることは忘れないほうがいい。
この心理機制のルールは、疾病のもたらす損失は決して利得を超えることがあってはならないというものである。
だが、普天間基地問題について語る人々を見ていると、「日米間には何の利害対立もなく、真の対立は国内にある」という主張がメディアを覆い尽くしている。
国内問題であると彼らが主張するのは、それが「取るに足らぬ問題」であり、「私たちはそれをハンドルできる」と言いたいからである。
言い換えれば、「これは身内のことであり、アメリカには関係のないことだ(首相の首をすげ替えたり、政権をまた交代すればいずれ解決する)」と彼らは言いたいのである。
「真の問題から眼をそらす」ためのこの国民的努力を私は決して軽んじているわけではない。
それは私たちの国に伝えられた一種の「伝統芸能」のようなものだからだ。
けれども、どこかで私たちは腹を決めるべきだろう。
このまま「私は健康だ」と言い続けて、病を押し隠すのか、どこかで「私は病んでいる」と認めて、その上で、私たちが「病とともに生きる」ことを可能にするより包括的な「国家についての物語」を再編するのか。

書いているうちに東京に着く。
紀尾井町の文藝春秋ビルへ。
沼野充義、都甲幸治のおふたりと村上春樹論を語るのである。
沼野先生とははじめて。温顔の碩学である。
沼野先生は鞄一杯に参考文献をご持参(5キロくらいあったんじゃないかしら)。都甲さんは最年少で、東大で沼野先生の学生だったこともあり、いささか緊張気味。私だけひとりぼんやりしている。
話は村上春樹の「世界」はどのように構造化されているのか、という問題をめぐる。
「父」の問題については、すでに何度か書いた。
Book3では「母になる」という新しいテーマ(たぶんこれまでの村上作品では一度も主題的には扱われたことのないテーマ)がせり出してくる。
「母になる」とはどういうことか、について私の考えはまだまとまっていない(なにしろなったことないから)。
けれども、これはレヴィナスの「繁殖性」(fécondité) という概念とふかいところで繋がっているような予感がする。
レヴィナスは『全体性と無限』の終わり近くで「子を持つこと」と「女性化すること」という謎めいた主題を提示した。
それについて私はかつてこのような文章を書いたことがある。

私たちはエロス的関係にあって、ウロボロスの蛇に似た不思議な循環構造のうちに絡め取られている。というのは、愛し合う人々が官能的に志向しているのはそれぞれの相手の官能であり、その相手の官能を賦活しているのはおのれ自身の官能だからである。
官能において、主体の根拠は愛するもののうちにも愛されるもののうちにもない。エロス的主体は「私は・・・できる」という権能の用語で官能を語ることができない。というのは、愛において私の主体性を根拠づけているのは、私が「愛されている」という受動的事況だからである。

「主体はその自己同一性をおのれの権能を自ら行使することによってではなく、愛されているという受動性から引き出している。」(TI, 248)

このとき、主体の主体性を構成しているのは、能動性ではなく受動性であり、おのれの確かさではなく、不確かさである。そして、この官能における決定的な主体の変容をレヴィナスは「女性化」と呼ぶのである。

「主体のこの不確かさは主体の自己統制力によっては引き受けられない。それは主体の柔和化 (attendrissement)、主体の女性化 (effémination) なのである。」(TI, 248)

レヴィナスが「女性」と名づけてきたものは経験的な女性ではなく、存在論的カテゴリーである、ということを私たちはここまで繰り返し書いてきた。それがどのようなものであるのか、ようやくその輪郭がはっきりとしてきた。「女性」とは受動性を糧とする主体性-あらゆる主体性に先行する主体性-の別名なのである。

「場所を得ること (position) から始まった主体性の劇的変容がエロス的関係の中で生起する。自らに場所を与えることを通じて、『ある』の匿名性を停止させ、光に向けて開かれた実存の一様態を確定した男性的・英雄的主体性がここで変容を遂げる。」(TI, 248)

「男性的・英雄的な主体」はあらゆる経験を通じて、私としての同一性を保ち続ける。だが、それは言い換えれば、私は私でしかなく、私自身に釘付けにされているということでもある。いわば男性的な私はすみからすみまで私で充満させられている。私自身によって全身を満たされていることによる私のこの窒息状態 (encombrement de soi) からの解放はエロスによってもたらされる。

「エロスはこの窒息状態から解放し、私の自己回帰を停止させる。」(248)
(『レヴィナスと愛の現象学』、せりか書房)

村上春樹の文学的成熟はその必然として、「男性的・英雄的主体の柔和化・女性化」という究極の主題へと向かいつつあるのであろうか。
よくわからないけれど、実に興味深いトピックではある。
というようなことを語りたかったのであるが、あまりに話が長くなりそうだったので、割愛。加筆の段階で、少しだけ言及することになるかもしれない。
とりあえず『Engine』の書評欄で、ちょっとだけ「母」と「時間」の問題に触れる予定。
それにしても、「困ったときのラカン頼み」「困ったときのレヴィナス頼み」の汎用性の高いことには驚くばかりである。
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