男性中心主義の終焉

2010-04-29 jeudi

『プレシャス』のオフィシャル・パンフレットが届いた。
不思議な映画である。
あちこちの映画祭で受賞しているけれど、どうしてこの映画がそれほど際立つのか、たぶん日本の観客にはその理由がよくわからないのではないかと思う。
それについて書いた。
変わった手触りの映画だな・・・と思った。「ふつうの映画」と違う。どこが違うのか考えたがわからない。そのまま寝て、一晩寝たら、明け方にわかった。
「男が出てこない映画」だったのである。
「看護師ジョン」役でレニー・クラヴィッツがクレジットされているけれど、2シーンだけ、台詞もわずか。プレシャスの成長を暖かく見守る「いい人」という記号的なかたちでしか物語に関与しない。
プレシャスのあこがれの数学の先生も、プレシャスを意味もなく突き飛ばす暴力的なストリートキッズたちもいずれも、人間な深みのない図像として記号的に処理されている。
一家の不幸そのものの原因であり、この物語の「天蓋」(キャノピー)をかたちづくっているのは娘をレイプし、妊娠させ、ウィルスをまき散らして去るプレシャスの「父」である。彼の発する瘴気が映画全体を覆い尽くしている。だが、その「父」は身体の一部と、かすれ声として幻想的に回想されるだけで、映像の前面にはついに登場しない。
主人公も、校長も、国語の先生も、クラスメートも、福祉課の職員も、物語を前に進め、主人公に慰めや癒しや励ましをもたらす役割はすべて女たちが担っている。母だけは例外的に暴力的でエゴイスティックな悪女だが、彼女がこのような人間になったことについての責任も結局は「諸悪の根源」たる父に送り戻される。
ここまで徹底的に「図式的」な映画は珍しい。
あきらかに監督はこの図式性を自覚し、計算し抜いた上で映画を作っている。本作が各種の映画祭で獲得した驚くべき数のトロフィーのリストを見ればその戦略のたしかさは理解できる。アメリカ人はまさに「こういう映画」を渇望していていたのである。その理路について少し説明したい。

これまで作られたすべてのハリウッド映画は、ジョン・フォードからウディ・アレンまで、『私を野球に連れてって』から『十三日の金曜日』まで、本質的に「女性嫌悪 (misogyny)」映画だった。女性の登場人物たちは男たちの世界にトラブルの種を持ち込み、そのホモソーシャルな秩序を乱し、「罰」として男たちの世界から厄介払いされた(「悪い女」は殺され、「良い女」は一人の男の占有物になる)。女たちにはそういう話型を通じて父権制秩序を補完し強化する役割しか許されなかった(と私が言っているわけではない。70年代からあと山のように書かれたフェミニスト映画論がそう主張していたのである)。
『プレシャス』はその伝統にきっぱりと終止符を打った。本作はたぶん映画史上はじめての意図的に作られた男性嫌悪映画である。
本作の何よりの手柄は、過去のハリウッド映画が無意識的に「女性嫌悪」的であったのとは違って、完全に意識的に「男性嫌悪的」である点である。本作の政治的意図は誤解の余地なく、ひさしく女たちを虐待してきた男たちに「罰を与える」ことにある。だが、その制裁は決して不快な印象を残さない。それは、その作業がクールで知的なまなざしによって制御されているからである。
『プレシャス』は、アメリカ社会に深く根ざし、アメリカを深く分裂させている「性間の対立」をどこかで停止させなければならないという明確な使命感に貫かれている。その意味で、本作は映画史上画期的な作品であると私は思う。その歴史的な意義が理解され、定着するまでには、まだしばらくの時間を要するだろう。だから、「映画史の潮目」の生き証人になりたい人はこの映画を見ておく方がいいと思う。
アメリカというのは何にせよ極端な国であり、極端から極端に一気に針が振れる。
ヘイズコードで暴力と性描写を30年にわたって禁圧してきた後、アメリカ映画はスプラッタと裸まみれの映画を量産するようになった。
白人男性の主人公だけが「いい思い」をする映画を山のように作ったあとに、70 年代以降は「フェミニスト・オリエンテッド」映画や「マイノリティ・オリエンテッド」映画など「政治的に正しい映画」を量産するようになった。
女性嫌悪映画は 1920 年代以来のハリウッドの伝統である(どうして1920年代に突然ハリウッドが「女性嫌悪」的になったかについては、私の『映画の構造分析』に詳しく書いてあるので、興味のある方はそちらをどうぞ)。
『プレシャス』はその時代が終わったことを示している。
たぶんこれから後はハリウッド発の「男性嫌悪映画」が量産されることになるであろう。
もちろん、これまでも男性登場人物は記号的に処理され、葛藤や逡巡や成熟が女性固有の出来事とされたドラマは存在した(女性作家の書く物語の多くはそうである)。
けれども、男性のクリエイターが男性嫌悪的なドラマを進んで作り出すようになったのは新しい傾向である。
そこにはアメリカのマッチョな文化がもたらしたあまりに多くの破壊に対するアメリカ男性自身の自己嫌悪が反映しているのだと思う。
私自身は『プレシャス』を歓迎したアメリカの観客たちの反応を健全なものだと思う。
アメリカの文化は「女性的なもの」へと補正されなければならないという見通しに私は深く同意する。
『プレシャス』は、その作業が「女性たちだけのホモソーシャルな集団」によって担われる以外にないと告げている。
男にはアメリカを「住みよい社会」にする仕事において果たす役割はほとんどない。
そのようなメッセージを男性のフィルムメーカーたちが発信し、それに対しておそらくその半数が男性である映画賞の審査員たちが同意を示した。
アメリカ男性よる伝統的なアメリカ的男性中心主義文化の否定。
あいかわらずアメリカ人のやることは過激である。
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