「大反論」に反論(じゃないけど)

2010-04-27 mardi

週刊ポストの中吊り広告を見て、びっくりした話は昨日ツイッターに書いた。
「上野千鶴子に内田樹が大反論!」というアオリの効いたタイトルがつけてあるけれども、もちろんこれはポスト編集部の客寄せ「羊頭狗肉」タイトルであって、中身は「大反論」などいうほど気合いの入っていない「いつもの話」である。
その中の上野「おひとりさま」論に直接言及した箇所は以下の通り。

 『おひとりさまの老後』には強い違和感を持ちました。あの本の核心は「家族が嫌い」ということをカミングアウトした部分でしょう。「家族に何の愛情も感じてないから、世話になる気もないし、世話をする気もない」と考えている人が現に大量に存在している。でも、その心情は抑圧されていた。上野さんがそれを代弁したことがひろく共感を呼んだのだと思います。でも、ぼくはそれは「それを言っちゃあ、おしまいだよ」という言葉だったと思います。
 「ひとりで生きる」ことが可能だというのは、それだけ社会が豊かで安全だということです。その前提条件が満たされた場合にのみ、「そういうこと」が言える。その前提が成立しないところでの「おひとりさま」はきわめてリスクの高い生き方だと思います(…)
フェミニズムはある条件内では整合的な社会理論ですけれど、経済の「右肩上がり」が前提になっている。「活発な消費活動を行えるだけの資力がある」ということが「おひとりさま」ライフの暗黙の前提です。
21世紀に入ってからは、「消費活動をどうやって活性化するか」だけを考えていればいいという状況ではなくなっています。ぼくたちは「貧しい資源をやりくりする」状況に適応しなければならない。
上野さんの「おひとりさま」コミュニティーはあくまで「強者連合」でしょう。お金があり、社会的地位があり、潤沢な文化資本のある人はそこに参加できて、快適に暮らせるでしょうけれど、その条件を満たす人は今はもうごく少数しかいない。その人たちにしてもお金がなくなったり、失職したり、病気になって自立能力を失ったら、快適な「おひとりさま共同体」からは出て行かなければならない。貧しいとき、病めるときにはその支援をあてにできない共同体にはあまり意味がないとぼくは思います。それより、緊急の問題は大多数の「ひとりでは暮らせない」人たちがどうやって他者と共生するスキルを開発することでしょう。

別に「大反論」などというものではない。
ある種の社会理論はそれが適合する歴史的条件のときがあり、適合しないときもある。
フェミニズムは「豊かな時代」の社会理論である。
社会が豊かで安全であるときは妥当するカバリッジが広く、社会が貧しく危険なものになればカバリッジが狭くなる。
それだけの話である。
別にフェミニズムには原理に致命的な瑕疵があるとか、その歴史的使命を終えたとかいうことを申し上げているのではない。
それを信奉することによって「生きやすくなる人」と「生きにくくなる人」の比率を私は問題にしているのである。
若く、貧しく、社会的リソースへのアクセスが限られている人たちには、「ひとりで生きるため」に努力するよりも、「共生のためのスキルを高めるため」に努力する方が生き延びるチャンスが高いということをアナウンスしているだけである。
長く苦しい努力の末に、豊かな社会的資源をひとりで享受できる立場になれた人は、好きでもない他人と共生する能力など必要などないのだから、そういう人たちが「そんなものは要らない」と言うのは正しい。
でも、そのようなことが言える人を標準にした社会理論の適用範囲はすでにそれほど広くはないし、これからはさらに広くなくなるだろう。
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