守伸二郎さんにお招きいただいて、多度津で合気道の講習会を行う。
考えてみると、私を合気道の講師に呼んでくださるのは広い世界で守さんだけである。
講演やシンポジウムの依頼はいくらも来るのに(全部断っているが)。
来年からはぜひ各地の合気道の講習会にお呼びいただきたいものである。
などと言っておきながら、依頼が来たら「やっぱ、家でごろごろしてたい〜」とか言って断るのかも知れないので、あまり信用しないように。
坂出ICで守さんに拾っていただいて、まずは多度津でお昼。
本格的なフレンチだったのでびっくり。
ワインが飲みたくて目の前がくらくらする。
ここの包み揚げは絶品です。
「看板を出していないレストラン」なのである。
一日にランチが8名、ディナーが8名まで。もちろん完全予約制。二ヶ月前から予約入れないと席が取れないそうである。
お腹がいっぱいになってホテルで昼寝していると、もう講習会なんかどうでもよくなるが、そうもゆかない。
40名ほどの申し込みがあり、合気道をやっている方が3割程度。あとは初心者である。
大阪の朝カルからモリモトさんコニシさんも来ている。
べつに丸亀まで来なくても、芦屋でもやってるんですけど・・・
肩胛骨と股関節を伸ばしてから、呼吸法、体捌き、それから転換。
さまざまなアプローチから四方投げ。
2時間半の稽古だったけれど、終わりの頃には、全員が四方投げ裏表がちゃんとできるようになっていた。
みなさん、優秀な生徒さんである。
それから明水亭に移動して、懇親会。参加者の半数以上がそのまま参加。
合気道に興味を持つ人には医療と教育の関係者が多い。懇親会も半数が医療・教育に携わる方々であった。
メディア論を書いているときに、とりあえずいちばん「不出来」なのが医療と教育に関する報道であるということを書いた。
おそらくそれはこの二つの領域が本来「なまもの」を相手にしているからだと私は思う。
「なまもの」は定型になじまない。
とりあえず「善悪・正邪」というような二元論的な切り分けになじまない。
そもそもそれは「主体と他者」というスキームを採ってはならない領域なのである。
しかし、メディアの定型は「被害者と加害者」「政治的に正しい者と政治的に正しくないもの」の二元論である。
それはメディアの宿命であり、その是非を言い立ててもしかたがない。
けれども、二元論的な思考しかできない知性(そういうもの「知性」と呼べるとしたら)では「なまもの」は手に負えないということは覚えておいた方がいいと思う。
医療や教育の現場の方たちは身体を経験主義的・機能主義的に取り扱うシステム、きわだって「非メディア的なもの」に惹きつけられる。
武道は「身体を機能主義的に取り扱う」ということに徹底している。
そこが、スポーツと違う。
スポーツは「勝ち負け」や「数値」や「記録」といったデジタルデータが一次的に重要なエリアであり、「なまもの」としてのアナログな身体には用がない。
だから「スポーツをやって身体を壊す」ということが起きる。
「健康法を実践したら病気になった」とか「長寿法をやったら早死にした」ということは笑い話ではなくて身近に無数の実例がある。
それは身体「そのもの」ではなく、身体の「出入力」を優先的に配慮することの必然である。
武道が身体の出力(強弱勝敗)を重んじないのは、それはあくまで「身体そのもの」のパフォーマンスの変化の指標にすぎないからである。
いわば体温のようなものである。
私たちはもちろん体温計が示す度数を気にすることがある。それが身体内部で起きている計測しにくい現象の断片的な指標だからである。
でも、その指標自体には意味がない。
だから、現に「世界体温選手権」というようなものはない。
空腹も眠気も「だるさ」もすべて身体そのものの機能についての重要な指標だが、「世界空腹選手権」も「世界眠気選手権」も「世界だるさ選手権」も存在しない。
「大食い選手権」はあるが「眠気選手権」はない。
「大食い」は数値化できるが、「眠気」は数値化できないという理由が一つだが、もう一つの理由は「大食い」は身体がそれを求めていなくても脳が消化器に強制できるが、「眠気」は制御できないということである。
私たちが興味をもつのは「身体が求めていること」であり、それだけである。
当然ながら、その方が「いのちがけ」だからである。
「大食い」の皿数は原理的に人間の生き死にに関係ないが(食い過ぎて胃が破れて死んだというような場合は別だが)、「空腹」は生き死ににかかわる。
私の身体はどのような姿勢をとることを求めているのか。何に触れたいのか、何に触れられたいのか、どのような響きを感じたいのか、どのような声で語りかけられたいのか、何を食べたいのか、何を飲みたいのか。総じて、どのように生きたいのか。どのように死にたいのか。
生きることにかかわるさまざまな「訴え」を高い精度で感知するための技法が武道である。
私たちが焦点を合わせているのは、インターフェイスで出来している「震え」のようなものであり、そこを透過して入力するもの、出力するものには二次的な意味しかない。
けれども、この「震えのようなもの」はメディアの語法がもっとも扱うことの不得手なものである。
もちろんメディアにも医療や教育について言いたいことを言う権利はある。
けれども二元論的な語法で語る限り、それらの領域における「なまの情報」には原理的にアクセスできないということは覚えておいた方がいい。
翌朝9時に丸亀を出て神戸に帰る。
会議が一つと取材が一つと稽古が一つ。
取材は集英社の『Spur』で、お題は村上春樹。
もちろんBook3の話がメインなのだが、本は土曜の朝についたものの、土曜はクーさんの結婚式、日曜は丸亀だったので、私はまだ読んでいないのである。
読んでいない本についてはお話しできないので、村上春樹作品一般を論じる。
取材を記事に起こすライターは江南亜美子さん。
はじめてお会いする方だが、ヘビー・リーダーで、打てば響く合いの手の良さ、こちらもつい身を乗り出して村上春樹文学論を熱く語ってしまう。
「この世界」はどんどん女性たちの独壇場になりつつあるなあとの感を強くする。
「編集者」とか「ライター」というのは、もしかするともともと「産婆」とか「巫女」とかいうのと似た機能の仕事なのかもしれない。
現に、「できる」男性編集者はみなさん「おばさん」キャラだし。
この村上春樹論は掲載誌のスペースが少ないので(1時間半しゃべったのだけれど、記事になるのは1頁分だけ)、テープ起こししていただいたものに少し手を入れて『村上春樹にご用心』の増補改訂版にボーナストラックでお付けする予定です。
お楽しみに〜
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(2010-04-20 11:58)