校正地獄

2010-04-13 mardi

新大阪で降りると大雨。
JR で西宮まで移動して、そこからタクシーで学校へ。会議が二つ。
部長会と学部長会で、入試結果を報告。定員管理の方法について一つご提案をさせていただく。
会議のあいまにゲラの校正を二件。
インタビューや対談のゲラは「データでください」といつも申し上げているのだが、pdfファイルやファックスや見本刷りで送ってくるところが相変わらず多い。
自分が「しゃべった」ということになって活字化されるものについては、できるだけ「自分の文体」に整えておきたい。
たしかに実際には「そんなふう」にしゃべったのかもしれないけれど、それをそのまま公表されては困るのである。
というのは、私にとっては、「しゃべった内容」よりも、「しゃべり方」の方が一次的に重要だからである。
どんな「正しいこと」を言われても、「くちぶり」が気に入らないと、私たちは耳を貸さない。
逆に何を言っているのかさっぱりわからなくても、「情理を尽くして語っている」という「感じ」がすれば、なんとか理解してやろうという気になる。
読み手と接触するインターフェイスの浸透性が、ものを書くときの勝負どころなのである。
だから、新聞のインタビューがあまり好きではない。
それは、新聞記者たちが書くインタビュー記事における「私」が総じて「えらそう」な奴だからである。
「だから〜」というような上から目線の言い方が多くなり、「情理を尽くして説得する」という健気さがどうも感じられない。
ほんとうにそうなのだと思う。
私はどうも新聞記者を相手にすると、無意識のうちに「えらそう」にしゃべるらしいのだ。
「なめられたら、あかんど」と自分を励まして、気づかぬうちに、いつもよりいっそう態度が悪くなるのである。
先方に罪はない。
「会ってみたら、ウチダって、なんか態度のでかいやつだったな」という印象を抱いて社に帰られ、その印象がにじみ出たインタビュー記事をお書きになっているだけである。
でも、私はそのインタビュー記事を読んで、けっこう「がっかり」するのである。
なんか、ウチダって、「やなやつ」。
と思ってしまうのである(自分で)。
自分ですらそう思ってしまうくらいであるから、余人はいかばかりか。
だから、データでもらって、必死になって手直しをするのである。
「感じのいい人」に書き換えるのである。
たしかにこれは「改竄」と申し上げてよろしいであろう。
書いた記者にしてみたら、「だって、ウチダ、自分でそう言ったのに・・・消して、言ってないこと書いてからに〜」とさぞやご不満であろう。
申し訳ない。
だが、人間が「ほんとうは何ものであるか」というようなことはどうでもよろしいのである。
どういうふうな人間だと「思われたいか」を軸に記憶も、コミュニケーションも構造化されている。
ほんとうは邪悪な人間なのだが、ひとから「善人」だと思われたくて、必死に善行を積んでいる人は「みなし、善人」である。
私はそれでよろしいと思う。
ほんとうは善い人なのだが、自分が善良であることにすっかり満足して、善良であることを証明するための努力をしないので、外形的にはきわめて不愉快な人物(けっこうたくさん、いる)は「みなし、厭な人」である。
そして、社会は「みなし」を軸に展開する、ということでよろしいのではないかと私は思っている。
というわけで重ねて申し上げまするが、対談およびインタビューのゲラは「データ」で送ってください。ほとんど全部書き直してしまって、原型をとどめませんが、如上の事情をご諒察の上、どうかご海容願います。
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