入試部長の言い訳

2010-03-25 jeudi

一般入試の第二次手続きが今日で終わる。
本年度入試の最終結果がだいたいわかった。
残念ながら、入学予定者数は当初予定を大幅に上回ってしまった。
入学者628名を予定していたのだが、現段階で642名。
本学は定員527名なので、定員超過率1,22倍。
総合文化学科は定員180名に対して234名ですでに1、3倍に達した。
1,3というのは大学設置基準上の「危険水域」を示す値である。
実員抑制が本年度入試部長としての仕事の最大の目標だったのだが、それが達成できなかった。
大学基準協会から「定員管理の徹底」をきびしく指示された直後のことでもあり、入試部長としては手痛い失態である。
なぜ、このようなことが起きたのか、それについて述べたいと思う。
要は、「言い訳」ですけど。

すでにこのブログでも何度も書いたように、本学のようなタイプの大学では、「油断していると定員割れを起こす」のではなく、逆に「油断すると必ず定員過剰になる」法則が働くことがある。
そのことを私自身は去年何度か説いてみたのであるが、残念ながら、多数を説得するには至らなかった。
たしかに私が申し上げたことは、理解いただくことがむずかしい話ではあったと思う。
来年度に同じ失敗を繰り返さないためにも、ここでもう一度、なぜ本学では定員超過が構造的に起きるのかについて、述べておきたい。
まず一般論から。
経営的には、入学者は多ければ多いほどありがたい。
だから、ワンマン理事長が経営権を握っていたり、理事会をビジネスマンが牛耳っている私学では、しばしば文科省のきびしい勧告を受けるほどの定員超過が常態化する(うちはそうではないです、念のため)。
だが、どこでもビジネスマインドで大学経営を考える人の「できるだけたくさん合格させて、できるだけたくさん入学させる」ことへの無意識的な選好を抑制することはできない。
それが人性の自然だからである。
私がビジネスマンで、大学経営に招かれたら、きっと「できるだけたくさん入学させる」ようにふるまうだろう。
だから、私はこれを非としているわけではない。
そういう無意識的な選好を「勘定に入れて」合否判定や残留率計算はしなければならない、と申し上げているだけである。
問題はむしろ教員サイドの無意識的な行動の方にある。
こちらの方がずっと屈折している。
一般論的に言うと、教授会メンバーは、「教育の質を高く維持させるためには、定員を超える学生を受け容れるべきではない」と考えている。
これは教育的には当然の判断である。
教員一人当たり学生数が少なければ少ないほど、教員がひとりひとりの学生のために割ける時間とエネルギーは増える。
教育効果は学生数が少ないほど高い。
単純な算術である。
だから、マネジメントサイドと教授会のあいだには「入学者を増加させようとする圧力」と「入学者を抑制しようとする圧力」が拮抗的に働いている。
と、ふつうの人は考えるであろう。
ところがそうではないのである。
そのことが入試部長を一年やって、わかった。
実は教授会メンバーにも「入学者を増加させる無意識的な圧力」が働いているのである。
その圧力は「教育の質を高く維持させるためには、定員を超える学生を受け容れるべきではない」という定員抑制の原理そのもののうちに内包されている。
「教育の質を高く維持させるためには、定員を超える学生を受け容れるべきではない」という命題の前段には、「現在私たちが行っている教育の質は決して高いものではない」という自己評価がある。
「今でさえろくな教育ができないほど教育環境は劣化しているのである」という悲痛な現状認識があるからこそ、「だから、これ以上の入学者は受け容れられない」という結論が導かれるのである。
「今はすばらしい教育が実現しており、きわめて良好な教育環境のうちで教育がなされている」という現状認識をもし教員が有していたら、人は入学者の増大に対して、決してそれほど警戒的にはならない。
現に成功しているんだから。
成功している場合であれば、私たちは「ちょっとくらい学生の頭数が増えても、どうってことないんじゃない」と推論する。
その方が「少しでも学生が増えると教育効果は著しく減殺されるであろう」と推論するより合理的だからである。
だから、「今自分たちがやっている教育は決してうまくいっていない」という否定的な現状認識をもつ教員ほど、入学者増が教育に及ぼすネガティヴな影響を重く受け止める。
ただし、この現状認識はかなり歪んだかたちでしか意識に前景化しない。
教育活動の失敗は、端的に自己の「教育者としての無能」を意味するからである。
それを回避するために、彼らは自分の無能を認めるよりはむしろ制度的な瑕疵に責任を振り向けようとする。
問題なのは、「自分以外の教員たちの教育力の不足」および/あるいは「教員たちがその能力を十全に発揮する機会を奪っている惰性的な諸制度」なのである。
それは構造的な欠陥であり、すでに個人的努力でどうこうできる限界を超えている。
そのような「やや誇張された被害評価」だけが、「自分たちの教育はうまくいっていない」という現状認識と「自分は教育力のある教師である」という自己評価の間の矛盾を糊塗することができる。
こうして、教授会メンバーにおいては、しばしば自然過程として、事態を「過剰に悲観的にとらえる」傾向が助長される。
その「強化された悲観論」(reinforced pessimism) は遂行的には「残留率の低い査定」として現れる。
彼らが自分の大学に下した「低い評価」は、当然ながら、志願者たちによる「低い評価」によって裏づけられるはずだからである。
志願者たちによって選択されないという事実が、彼らの知性が好調であることを裏書きすることになる。
大学の教師は自分の知性が好調であることを証明できるなら、自分の雇用環境が劣化することくらいはにこやかに受け容れることができる、そういう生き物である(そうでなければ、大学の教師になんかなれない。私が現にそうである)。
こうして、経営サイドの「入学者増を求めるわずかな圧力」と教授会サイドの「悲観論に基づく残留率のわずかな下方修正」が合致した結果、入学者の定員超過が常態化するのである。
繰り返し申し上げるが、私はそれが「悪い」と言っているのではない。
「人間というのは、そういうものだ」と申し上げているだけである。
そういう傾向を「勘定に入れて」、合否判定と残留率の計算はしなければならないということを確認しているのである。
今年度は、そういう揺れ動く心理的ファクターを「勘定に入れる仕方」が十分に正確ではなかった。
来年度は「勘定の精度」を上げること。
私たちに求められているのは、とりあえずそれだけである。
それができれば十分だと私は思う。
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