相対的貧困は解決できるか

2010-02-15 lundi

晩ご飯のあと、ごろんと寝ころんだら書棚にあった『貧困を救うのは、社会保障政策か、ベーシック・インカムか』(山森亮・橘木俊詔、人文書院、2009)という本の背表紙が眼に入った。
そのまま手を伸ばして読み始める。
書架というのはこういうときに便利である。
読み始めたらおもしろくて、最後まで読んでしまった。
橘木さんは67歳の経済学者、山森先生は40歳の社会政策学者。学問的なアプローチも、ものの考え方もずいぶん違うけれど、きちんとした対話になっている。
相手と意見が違うときも、ふたりとも遠慮なく「私はそうは思いません」と言うけれど、それはたいていの場合、相手の発語を塞ぐというより、「それ、私にもあなたにも、どちらにもわからないことでしょう」という表示である。
過去の事例だけれど、まだ成否の検証が済んでいない政策と、未来予測に属する政策については、「私はあなたと評価を異にする」ということを表明しても、すこしも非礼ではないし、対話を継続する妨げにはならない。
それはいわば、「私たちがともに知らないこと」を列挙するための作業だからである。
私ひとりが知らないことをみんな熟知しているということは、よくある(私の場合は)。
でも、それが二人になると話が違う。
二人ともが「ともに知らないこと」は「誰にとっても知られにくいこと」である蓋然性がきわめて高い。
そして、学者のもっともたいせつな仕事の一つは「誰にとっても知られにくい論点」を前景化することである。
「知っていること」を列挙する学者を私が嫌うのは、彼がその知的リソースをもっぱら自分の知的威信をショウオフするために使用するからである。
せっかく「いい頭」に生まれついたのなら、それを「世のため、人のため」に使用したらどうかと思う。
「知らないこと」を探求する学者を私が尊敬するのは、彼がその知的リソースをもっぱら「世のため、人のため」に使用するからである。
「私はこのことがわかりません」とカミングアウトすることは、その学者の知的威信にはあまりプラスにならない。
けれども、彼の知性を以てしても「わからないこと」にきちんと「タグ」をつけて、人々に告知するというのは公共性の高い仕事である。
それは「ここに穴があります。足元注意」とか「この先熊が出ます」というアナウンスメントと本質的には同じことである。
橘木さんと山森さんの本では、経済政策・社会政策において、「どうしたらいいか、よくわからないこと」が次々とリストアップされている。
その作業は「こうすれば、万事解決」というシンプルな提言をなすよりも、ずっと学的には生産的なことだと思う。
その中で、フックしたトピックをひとつ。
それは「絶対的貧困」と「相対的貧困」ということである。
この論件については、これまでも何度か書いたことがある。
私はこれをオダジマ先生に倣って「貧困」と「貧乏」と使い分けた。
「貧困」とは、私の私的な定義によれば、「どのような個人的努力によっても社会的に向上できる可能性が閉ざされているような欠乏状態」のことである。
定期的な就業機会、教育授産機会を持たないことがその条件となる。
定期的に就業していれば、その人はなんらかの「考課」の対象となる。
考課とはプロモーション機会のことである。
教育授産機会があれば、自己教育によって有用な知識や技能を身につけることができる。
他者から考課される機会を持たす、自己教育の可能性もないような種類の欠乏を「絶対的貧困」と呼びたいと思う。
それに対して、「相対的貧困」とは私が「貧乏」と呼ぶものである。
それは数値的には表示できないし、何か決定的条件の欠如としても記述できない。
それは「隣の人はプール付き豪邸に住んでいるが、私は四畳半一間に住んでいる」「隣の人はベンツに乗っているが、私はカローラに乗っている」「隣の人はスコッチを飲んでいるが、私は焼酎を飲んでいる」「隣の人はパテック・フィリップをはめているが、私はカシオをはめている」というかたちで、どちらも同一カテゴリーの財を所有しているのだが、その格差を通じて欠落感を覚えるということである。
相対的貧困は、物資の絶対的な多寡とかかわりなく、隣人があるかぎり、つねに示差的に機能する。
だから、無人島に漂着した人々が隣人に感じる羨望と、ウォール街の金融マンが隣人に感じる羨望は、それが羨望である限り同質である。
そして、相対的貧困感は人間が複数で暮らす限り、決して消すことができない。
そもそも資本主義市場経済というのは「私が所有すべきはずのものを所有していない」という欠落感を動力にして作動しているものであるから、相対的貧困感を否定することは、市場活動そのものを否定することになる。
だから、社会政策として相対的貧困を論じることはあまり意味がない。
それより「絶対的貧困」にすみやかに効果的な政策的対応を行うべきだろうと私は思っている。
けれども、橘木さんは相対的貧困こそが問題なのだと言う。

「橘木:アフリカのように水しか飲めないというような貧困が日本には少ないことは認めますが、我々は一定のコミュニティなり地域に住んでいる。そのコミュニティの他の人々と比べて、自分がどれだけ悲惨な状況にあるかということから、貧困を感じるのです。
経済学では、一般的な財や資源にアクセスできない状態を、相対的剥奪 (Relative Deprivation) といいます。例えば、私には100万円くらいの年収しかないけれど、隣に何億円もの年収の人がいて毎日パーティやって、おいしいものを食べて、ベンツに乗ったりしているのを見ていて、自分がいかにみじめな状況にいるかということを考えたら・・・。こんな大金持ちではなくて普通の家庭でもいいですが、自分がいかに悲惨な状況にあるか、剥奪されているかと感じたら、最悪の場合その人は自殺するかもしれない。これがまさに相対的貧困の定義ですから、相対的貧困も非常に重要ですよ。
平均的家計所得が高いから、あるいは食べられずに死んでいく人はいないから、日本の貧困は深刻ではないという論には、私は賛成しません。」(76-77頁)

そうなのかもしれない。
人は飢えて死ぬばかりでなく、羨望でも死ぬのだ、というのは事実だろう。
けれども、「飢え死にしそうな人間」と「羨望で自殺しそうな人間」のどちらを先に救済すべきかと言えば、限りあるリソースは「救える方」に配分すべきだろう。
相対的貧困には原理的に「打つ手がない」からである。
というのは相対的貧困というのは「脳」が作り出したものだからだ。
脳は「自分に欠けているもの」を無限に列挙することができる。
絶対的貧困はそうではない。
そこには「身体」という限界があるからである。
人間が一日に食べられる量には限界がある(食べ過ぎると腹が裂ける)。人間が一度に着られる服にも限界がある(二着同時に着ると重くて歩けない)。人間が一度に住める家にも限界がある(夜中に頻繁に居宅を移動していたら睡眠不足になる)。
どれほどものを欲しがろうと、最終的に「身体」という限界が人間の欲望を停止させる。
「それ以上やると身体を壊す」からである。
身体は「・・・することができない」という不能のメッセージを脳に向けて発信することによって、人間的行動を適正な範囲内にコントロールする。
それが身体の本質的機能なのである。
絶対的貧困は「身体問題」であり、相対的貧困は「脳問題」である。
身体問題は「そんなことしたら身体を壊します」という限界がある。
脳問題には「そんなことをしたら脳を壊します」という限界がない。
だから、「脳問題」には「正解」はあっても、「落としどころ」がない。
脳は、「相対的貧困の解消」のための「正解」だって、もちろん提示してくれる。
「すべての富をみんなが平等に分かち合えばいい」である。
論理的には文句なしの正解である。
でも、不可能である。
それは、「富の平等な分配」を策定するためのコストがすぐに「分配すべき富そのもの」を上回ってしまうからである。
「私は隣人より貧乏です。補正してください」という人々の訴求を聴取し、その根拠を精査し、過不足分を調整する仕事に、人類の過半が没頭しても、たぶんこの仕事に「これでおしまい」という日は来ない。
富のフェアな配分方法の追求が富そのものの生成よりも優先されたら、人類は遠からず飢え死にするであろう。
それは「正解」だが、「落としどころ」としてはちょっと無理があるだろうと私は思う。
私の経験知は「相対的貧困には手を出すな」と教えている。
「そんなものを政策的に解決しようとしたら、身体を壊すよ」と私の身体がアナウンスしている。
「自分の身体を壊さない範囲で、出会う若い人たちにこまめにプロモーション機会を提供する」というのが、私が思いつく「落としどころ」である。
どのように幻想的なアイディアであっても、個人が固有名で請け負う事業にはおのずと身体的限界がある。
その「限界」が「正解」のもたらすリスクをコントロールしてくれる。
私はそういうふうに考えているけれど、この消息を経済学や社会政策の語法で語ることはきわめて困難なのである。
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