ミドルメディアの時代

2010-01-10 dimanche

出版社からいろいろ本が送られてくる。
「ぜひご高評賜りたく」というようなことが書いてある。
でも、よほどのことがないと書評は書かない。
つまらなければそのままゴミ箱に放り込み、面白ければ酔っぱらいながらでも読み進み(翌朝内容をすっかり忘れている)というような自分勝手な読み方は書評家には許されないからである(当たり前だが)。
だから、これまでにいくつかの新聞社や出版社から書評委員になってほしいというオッファーが来たけれど、全部お断りした。
それでも、本は毎日のように送られてくる。
でも、年末から久生十蘭が「マイブーム」なので、送られてきた本までなかなか手が回らない。
でも、面白そうな本は「寝ころんで休憩」というときにぱらぱらとめくることがある。
たまたま手に取った『2011 年 新聞・テレビ消滅』(佐々木俊尚、文春新書)がたいへん面白かった。(注:最初『2010年』と書いていました。訂正します。佐々木さん、すみません)
新聞とテレビがビジネスモデルとして限界に近づきつつあるということは実感としては確かだが、新聞もテレビもそのようなことは報道しない(当たり前か)。
三年ほど前、「テレビはもうメディアとして末期的ではないか」ということを某新聞の紙面批評の場で申し上げたことがある。
ある巨大なメディアがビジネスモデルとして瓦解しようとしている事情をなぜ新聞は報道しないのかという私の言葉に対して、ひとりの論説委員が立ち上がって、「あのね、テレビを『俗悪だ』って批判すると、その番組の視聴率が上がるだけなんだよ」と渋面をつくって答えた。
私は別に個別的な番組の良否を問題にしていたのではなく、「あるメディアが命脈が尽きようとしている」興味深い歴史的状況についてどうして他のメディアは批評的に機能しえないのかという原理的な問題を述べたのである。「俗悪番組」とか「視聴率」とかいう「テレビ業界内的」なイシューには私は何の興味もない。
だが、渋い顔をしてみせた論説委員はテレビの問題を「テレビ業界内部的」な枠組みでしか考えることができなくなっていたのである。
私は「こんなのが論説委員をしているようでは新聞というメディアも長くはないな」と思って、気落ちしてその場を去ったのである。
新聞とテレビは久しく危機的状況にある。
けれども、どういうふうに危機的であるのかを新聞もテレビも報道しない。
組織防衛的な意味で、システムの脆弱性を秘匿して、延命をはかっている意図的な「見ないふり」ならまだ許せる。
けれども、どうやら事態はさらに悪く、彼らは日本のマスメディアが構造的危機に立ち至っているという事態を「うまく理解できていない」ようなのである。
おそらく、自己言及するための言葉を持たないという「批評性の欠如」そのものがこの二つの凋落しつつあるマスメディアの危機の本質であろうかと思う。
ジャーナリズムとは、その社会で起きつつある「直視したくないダークサイド」にあえて踏み込むことで、ひろびろとした展望を語ることを責務のひとつとするものではなかったのか。
マスメディアの凋落という事態そのものもまた、マスメディアが冷徹に分析すべき「社会的事象」に算入されるべきだと私は思う。
つねづね申し上げているように、「知性的」というのは、「おのれの知性の不調を勘定に入れることのできる能力」のことである。
マスメディアが「おのれの知的不調を勘定に入れることができない」まま推移するのであれば、その命脈が尽きるのは想像するより早いと思う。
で、本の話だけれど、佐々木さんの『2011年新聞・テレビ消滅』はリアルかつクールに「ビジネスモデルとしてもうダメ」ということを淡々と論証した本である。
インターネットが出てきて、もう旧来のマスメディアはその歴史的意義を失った。
これからはマスメディアとパーソナルメディアの中間の「ミドルメディア」が情報流通のデフォルトになるだろうという見通しを佐々木さんは示している。
新聞社もテレビ局も、生き延びようと望むなら、ダウンサイジングして、良質なコンテンツの提供者という「小商い」にシフトするほかないだろうと私も思う。
新聞記事やテレビ番組といった「コンテンツ」をアレンジして、「情報商品」としてパッケージするプロセスは「コンテナ」と呼ばれる。
その「情報商品」をエンドユーザーに届けるプロセスは「コンベア」と呼ばれる。
メディアによる情報配信は「コンテンツ-コンテナ-コンベヤ」の三層構造になっている。
新聞の場合は個々の記事が「コンテンツ」、新聞という媒体が「コンテナ」、販売店が「コンベヤ」である。テレビの場合は個々の番組が「コンテンツ」、そこにCMを載せたり、番組表を編成する「コンテナ」がテレビ、地上波、CATVが「コンベヤ」である。
この3C構造の中で、利益を上げているのは実は「パッケージ」部門を管轄する「コンテナ」部分である。
テレビでは「コンテナ」が you tube に移りつつある。
新聞では、「コンテナ」がネットに移りつつある。
この構造的な変化の行く末を佐々木さんはこんなふうに書いている。

「垂直統合がバラバラに分解して、新聞社やテレビ局は、単なるコンテンツ提供事業者でしかなくなった。パワーは、コンテナを握っている者の側に移りつつあるのだ。もちろん、コンテンツの重要性が失われるわけではない。良い記事、良い番組コンテンツはこれからも見られ続けるけれども、そのコントロールを握るのはいまやコンテナの側にシフトしはじめているのだ。
 これこそが新たなメディアプラットフォームの時代である。
 コンテナを握る者こそが、プラットフォームの支配者-すなわち握っている人がすべてをコントロールするプラットフォーマーになっていく。」(49頁)

新聞社やテレビ局が「プラットフォーマー」であることを止めたあと、メディアの中心になるのは「ミドルメディア」である。
ミドルメディアを佐々木さんはこう定義する。

「特定の企業や業界、特定の分野、特定の趣味の人たちなど、数千人から数十万人の規模の特定層に向けて発信される情報」(52頁)

このミドルメディアをどうやってビジネスに結びつけるかという論件がこのあと展開するのだが、上に述べたとおり、ミドルメディアをベースにするビジネスはどう転んでも「小商い」になるしかないと私は思う。
そして、「小商い」でいいじゃないかとも思うのである。
マスで製造されたものがパーソナルに消費されるという経済構造そのものが共同体の解体と個の原子化という現況を結果したのである。
それに対する補正の動きが、「中間的なメディアによって結ばれる、中間的な共同体」であることは、理の当然である。
そして、中間的共同体の「中間性」は、まさしくそれがビジネスオリエンテッドではないということに担保されている。
中間共同体の共同性は「うまく立ち回ったもの」に傾斜的に利益が配分され、「しくじったもの」が損をこうむるためのものではなく、そこに蓄積されたリソースがメンバーたちにフェアに分配されるための共同性である。
だから、ミドルメディアは本質的に「反資本主義的」なものたらざるを得ないだろうと私は思う。
ミドルメディアが支配的なメディア形態になるだろうという見通しは蓋然性が高い。
けれども、そのミドルメディアを使って「どうやって自己利益を増大させるか?」という発想をする人は、たぶんこのシフトの歴史的な意味がよくわかっていないのだと思う。
本書の終わりの方で鳥越俊太郎さんが編集長になって始まった「オーマイニュース」が鳴り物入りでスタートしてわずか3年でサイトごと閉鎖されてしまったことが告げられていた(始まったのは知っていたが、つぶれたことは知らなかった)。
これは市民が記者となってネット上に新聞を作るというコンセプトのプロジェクトだったけれど、送られてくるニュースのコンテンツの質の管理が困難なために、メディアとして成り立たなかった。
ミドルメディアを使った活動は「コンテンツ提供者とその享受者たちのあいだでの人間的信頼関係が保たれる程度の小商い」というのがいちばん「つきづきしい」形態だろうと私は思う。
コンテンツの質を最終的に担保するのは、コンテンツ作成者の「受信者の知性と批評性」に対する敬意と信頼だと私は思う。
それは言い換えると、情報コンテンツは本質的には「商品」ではなく「贈与」だということである。
そして、もしそこにビジネスが介在する余地があるとすれば、「スムーズに贈与が進行するために必要なインフラストラクチャーの整備」というかたちで派生する「セカンドビジネス」としてであろう。
その本質をただしく理解した人びとだけがミドルメディアの時代を気分よく生きていけるのだろうと私は思う。
--------