2010 年年頭のご挨拶

2010-01-01 vendredi

あけましておめでとうございます。
2010 年もどうぞよろしくお願いいたします。

とうとう 2010 年になってしまった。
『2010年宇宙の旅』が公開されたのが1984年。
そのときには「2010年なんてはるか未来」だと思っていた。
「2010年て、オレはそのとき60歳だぜ」とげらげら笑っていた。
想像力がなかったからではない。
うっかり想像してしまったせいである。
指摘するひとは少ないが、1950 年代に少年時代を過ごした私たちの世代の「21世紀」についての想像は小松崎茂先生のイラストによって深く決定的に規定されていた。
小松崎先生の空想世界では、21世紀の大人たちは銀色の宇宙服のようなツナギを着て、エアカーに乗って宇宙ステーション状のオフィスに出勤し、ロボット秘書にコーヒーを淹れてもらい、テレビ電話で会議をしていた。
私は「銀色のツナギを着て、エアカーで出勤する自分」をうまく想像できなかった。
それで「2010 年の私」について想像するのを止めてしまった。
寅年生まれの私は干支が一巡して、今年還暦である。
還暦といえば、「赤いちゃんちゃんこ」を着て孫を抱いてにこにこ笑っている老人という定型的イメージがある。
もちろん私はそれもうまく想像することができなかった(孫いないし)。
「銀色の宇宙服」と「赤いちゃんちゃんこ爺」のどちらも採用できなかったせいで、私は「60歳になった自分」について想像することをずいぶん以前に止めてしまったのである。
「年を取る」ということ、あるいはさらに原理的に「自分の未来について適切な下絵を描く」ということは想像力に負託された仕事であり、その仕事をきちんと果たすことのできる人間はきわめて少ない。
1950 年代の少年たちがその後の「右肩上がり」の経済成長にあれほど簡単に適合できたのは、半世紀後の世界が「小松崎ワールド」として図像的に提示されていたからである。
そして、その激動の過程ではどれほどのものが棄てられ、破壊されるべきかについて、少なくとも少年たちのあいだではひそかな国民的合意ができていた。
もし、そのとき少年誌のイラストに「未来の日本」の風景として、たとえ片隅にでも、棚田や里山が描き込まれていたら、それからあとの日本はおそらく別のかたちのものになっていたであろう。
けれども、私たちのSF的想像力はせいぜいエアカーの飛来する都市空間の片隅に「うどんやの屋台」を点綴する『ブレードランナー』的世界にまでしか及ばなかった。
1950 年代の日本人のうち、60 年後の日本が「こんなふう」になることを予見できたものはいなかった。
それは言い換えると「いろいろなものを気前よく破壊し、廃棄したわりには、日本は本質的にはどこも変わらなかった」ということである。
そのありようは、これからは全く新しい家に住むのだと、古い家具やら什器やらをあらかた捨てて手ぶらで引越した先が「家具も什器もないだけで、前と同じような家」だった人の当惑に似ている。
60 年生きてきてわかったことの一つは、私たちの未来予測はほとんど当たらないということである。
もう一つ。テクノロジーがどれほど進化しても、社会システムは本質的にはほとんど変わらないということである。
長く生きたからといって人間はべつに賢くなるわけではないということを長く生きてきて知った。
その自分の愚かさについての覚知だけが唯一加齢のもたらした価値ある知見である。
というわけで、だから、今年の目標は「働き過ぎに注意して、のんびり暮らす」である(前段との論理的脈絡がないが、もう年だからそういうことはどうでもよいのである。同じ人間が書いていることだから、どこかではつながっているのである)。
じたばたしてもたいしてものごとは変わらないし、変わる場合でも、たいてい悪い方向にしか変わらない。
だったら、じたばたしないに越したことはない。
みなさんもどうぞのんびりとよいお正月をお迎えください。
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