アイルランド辺境論

2009-12-05 samedi

雨の中、新横浜へ。
足立さんの仕切りで、二誌の取材と広告用写真撮影。
最初はサンケイ新聞。
『日本辺境論』について語る。
訊かれるたびに違う話をしているので(退屈だから)、だんだん混乱してきて、自分が何でこんな本を書いたのかわからなくなる。
写真撮影のために、いろいろポーズを取る。
個人的には “Arc” の表紙のメルロー=ポンティのポーズ(眉をしかめて煙草にマッチで火を点けているところ)を真似したいのだが、煙草を吸っている写真というのは当世では「政治的に正しくない」画像だそうで、ただちに却下される。

続いて『Engine』のスズキさんがおいでになる。
ヨーロッパにおける辺境といったらどこでしょうね、という問いから、「アイルランド」じゃないかなという話になる。
私はアイルランドについては何も知らないけれど、ローマ帝国によるヨーロッパの「開化」とキリスト教化によって周辺に押し出された「原ヨーロッパ文化」の残滓が流れ流れて最終的にアイルランドには蓄積されているような気がする。
18世紀からアイルランド系移民が大量にアメリカに移住するが、イギリス系アメリカ人からはきびしい差別を受けた(この「いちばんあとからアメリカ社会に参入してきたものに対する差別」は、その後「イタリア系移民に対する差別」「ユダヤ系移民に対する差別」「アジア系移民に対する差別」「黒人差別」と続く)。
私たち日本人から見て、アイルランド人の屈託のありようは「辺境民同士」的な何かを感じる。
スコット・フィッツジェラルドとレイモンド・チャンドラーがアイルランド系と知ると、「なるほど」という気がする。
どこがどう「なるほど」であるのかと改めて訊かれると答えられないけれど。

スズキさんとお別れして、次は『Sight』の高橋源一郎・渋谷陽一鼎談。
民主党政権の「振り返り」総括。
風邪を引いた高橋さんが、それでも相変わらず豪快なブロウを聴かせてくれる。
ぼくと渋谷さんはげらげら笑うばかりである。
小泉純一郎と内田裕也における「抑圧された反米感情」という、民主党政権とはぜんぜん関係ない話で盛り上がる。
内田裕也の兄は復員兵で、戦後まもなく死んでいる。兄を深く愛していた内田少年は埋められないほどの心理的欠落感を覚える。
その欠落はある日ラジオから聞こえてきた音楽によって満たされる。
それはエルヴィス・プレスリーの曲だった。
プレスリーのうちに内田裕也は「戦いに敗れて、失われた日本の兄」を幻視したのである。
そのあと、半世紀にわたって、内田裕也はロックンロールを通じて「失われた兄たち」の擁護と顕彰を果たそうとした。
彼が都知事選挙に出馬して、英語でスピーチをしたことには深い必然性があったのである。
小泉純一郎の中でもこれとほとんど同じ心理的な作劇があったのではないかと思う。
横須賀で育った小泉少年はある日帝国海軍司令部に翩翻と翻っていた日章旗が星条旗にとってかわられるのを見た。
そのとき小泉少年は「星条旗と日章旗は同一のものである」という妄想を病むことによって「死んだ兄たち」への崇敬と愛情を保持するという大技を繰り出した。
小泉少年が帝国海軍軍人たちに向けた憧憬のまなざしはそのままアメリカ兵たちのうえに投影されたのである。
小泉純一郎もまたエルヴィス・プレスリーへの深い愛着をカムアウトしている。
「小泉純一郎と内田裕也においてエルヴィス・プレスリーは何を代理表象していたのか?」という問いはフロイト先生がご存命であれば、たちどころに解明してくださったであろう。
そういえば、ドイツ系ユダヤ人とチェロキー族の血を引いたアイルランド系アメリカ人であるエルヴィスもまたひとりの「辺境民」であった。
『Sight』ではこの箇所はたぶんカットされると思う(民主党政権の評価とぜんぜん関係ないものね)。
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