鳥取 revisited

2009-12-05 samedi

倉吉東高校に講演に行く。
この高校の芝野先生という方がたいへん熱心な「ウチダ読者」で、ご招請いただいたのである。
増田聡くんによると、「たいへん熱心なウチダ読者」のことを業界の一部では「タツラー」というそうである。
ええ、そうなの〜
「ウチダー」よりはいいでしょうと増田くんは言う。
まあそうだけど。
とにかく、その先生の音頭取りで全校をあげて「ウチダ本」を読む運動を展開されているらしい。
生徒たちはしかたなく近くの書店に行って「ウチダタツルの本ありますか?」と訊くことになる。
倉吉の書店の人も次々に高校生がやってきてはウチダ本を求めるので、さぞや驚かれたであろう。
そのせいで倉吉の書店では「内田樹コーナー」を作ったそうである。
リバプールでレコード屋をやっていたブライアン・エプスタインのところにある日レイモンド・ジョーンズという少年が来て、「ビートルズのレコードある?」と訊いた。
ブライアンはそんなバンドの名前を知らなかった。
ビートルズのレコードを買いに来る子どもたちが続いたので、これは何かあると思ったブライアン・エプスタインはクラブにその名前のバンドの演奏を聴き行き、それが縁でバンドのマネージメントをすることになった。
という「わらしべ長者」のような話がある。
倉吉の書店のみなさまに天上のブライアン・エプスタインからのご加護がありますように。

倉吉東高校の生徒さんたち先生がたを前に講堂の壇の上で100分ほどしゃべる。
「学ぶ力-生き延びる力を育てる学校教育」というタイトルで、学校という制度の人類学的意味について、おもに「スキャンする力」と「センサーの感度」をどう涵養するかというテクニカルな視点から考察する。
最初に生徒さんたちは「起立・礼・着席」ということをきちんとされるが、この身体運用な何のためのものか、という問いから説き起こす。
身体運用の同調はおそらく幼児がもっとも早い時期に興味をもち、かつ訓練されることである。
幼児教育が「おゆうぎと歌」を中心に編成されているのはゆえなきことではない。
同一動作の鏡像的反復は脳内のミラー・ニューロンを活性化させる。
ミラー・ニューロンは「鏡像」との同一化能力を強化し、それはそのまま子どもたちを「主体の基礎づけ」に導く。
初等教育でも、同一動作の反復はあらゆる場面で繰り返される。
これを「心身の権力的統制」とか「馴致」とか口走る人は「主体」の存立を不当前提している。
主体が出てくるのは、ずいぶん後の話である。
まず主体を作り上げなければ話にならない。
とにかくミラー・ニューロンが活性化して、鏡像をおのれと「誤認」するという経験を経由しないと主体は始まらないのである。
中等教育でもだから「標準的な身体運用」が強制される。
他者の身体との同調、共感、感情移入、「鏡像とおのれの混同」を経由してはじめて主体性を司る脳機能が基礎づけられるからである。
個性を消すためではなく、個性が育つ基盤を作るために、「他人と同じ動作」をすることが強制されるのである。
「型にはまった」制服や校則を忌避する少年少女たちが、その一方で、彼ら同士の間では、まったく同じような「着崩し」方をし、まったく同じような髪型をし、まったく同じようなメイクを共有し、まったく同じような口調で、まったく同じような内容の話をするのはなぜか。
それは「個性の追求」ではなく、「型にはめられること」を彼ら自身が希求しているからなのである。
それは必要なことなのである。
だが、定型性は定型性として外部から「強制」されるべきだと私は思う。
「外から強制された定型性」はいつか、子どもたちが成熟し、社会的な力がつけば振りはらうことができる。
だが定型的なふるまいを、それを現になしている主体が外部からの強制ではなく、「自分の意思で選んだもの」であると思い込んでいたら、そこからは出ることができない。
押し付けられた定型からは逃れられるが、自分で選びとった定型からは逃れ難い。
他人にかけられた呪いよりも、自分で自分にかけた呪いのほうが解除しにくい。
学校の機能は子どもたちを成熟に導くことであり、それに尽くされる。
標準的な身体運用を強いること、あるいは外見が同一的であるために自他の識別がむずかしくなるような仕掛けを凝らすのは学校という制度が成熟のための装置である以上、当然のことなのである。
現に、私は合気道の道場でまさにその通りのことを強いている。
道場で「好きな服装で来てよろしい」、「自分の好きなように動いてよろしい」「気分次第に好きな声を出してよろしい」というような「個性尊重ルール」を適用したら、ひとりひとりの心身の能力開発プログラムは一歩も前に進まないからである。
骨格筋や呼吸筋の同一的運用を強いることによって、ミラー・ニューロンを活性化させ、それによって「スキャンする力」(上空から自分を含む風景を一望する力)を強化する。
ミラー・ニューロンとスキャニングの関連についてはすでに何度も書いたとおりである。
スキャンするとは「自分を含む文脈を知る」ということである。
言い換えれば、自分が含まれるこの場において自分がどこにおり、どこに向かっており、何につながっており、どのような働きを託されているかを知ることである。
村上春樹的比喩を用いて言えば、「配電盤」的なものの境位に触れることである。
宗教的用語で言えば「おのれの召命 (calling / vocation) を知る」ということである。
スキャンする力がないものには、自分が果たすべき仕事、自分がそれを成し遂げるためにこの世に生まれてきた当の責務が何であるかを知ることができない。
若い人は多く誤解しているが、個性というのは内発的なものではない。
「呼ばれる」ことである。
「自分は何をしたいのか?」という内発的な問いにこだわっている限り、人は ground level から抜け出すことができない。
自分が誰であるかを知るためには、自分から離脱して、上空から自分を俯瞰することが必要なのである。
そして自分から離脱して、上空から自分自身を俯瞰するためには、「鏡像的他者たち」と身体的に同調することが必要なのである。
どういう理論でそうなるのか、私にはまだうまく言えない。
だが、脳科学の実験的知見と、武道や学校が歴史的に蓄積してきた「学び」と「成熟」にかかわる経験知はそう教えている。
自分を含む風景を上空から俯瞰する能力(スキャンする力)は、身体的同調(多田塾の合気道ではこれを「気の感応」と呼んでいる)によって強化される。
「呼吸合わせ」というのは私たちの稽古の基本であるが、多田先生はこれを鏡に向かって何時間でもやれと教えている。
鏡に向かって、全身を前後に動かしながら呼吸して、「鏡像」に同調する稽古をするだけで、武道的感受性が劇的に高まることを多田先生はご自身の60年余にわたる修業から確信された。
この術理は、池谷裕二さんから「ミラー・ニューロンと幽体離脱」の話を聴いたときに私には深く得心が行ったのである。
講堂に集められて、制服を来て、整然と「起立礼着席」動作を行う千人あまりの高校生たちを見て、そのことが思い浮かんだ。
「みなさんはこの動作を儀礼的なものだと思っているだろうが、それは違う。これは成熟のための身体操作なのである」という話をしたのである。
ずいぶんとややこしい話だったと思うが(しゃべっている私自身うまく説明できないのだから)、おそらく高校生たちのどなたもが「人間が作り出した制度の意味と機能は簡単にはわからない」ということについては得心がいったのではないかと思う。
その後、高校生たちと1時間ほど懇談。
鳥取西高校では核武装の可否について質問があったが、ここでも沖縄の基地問題やユダヤ人の民族特性についてなど、ハードな質問が続いて、すっかり愉快な気分になる。
「質問しているうちに、自分が何を知りたいのかよくわからなくなる」というのは彼らの年齢においては知的なブレークスルーの徴候であり、「質問に答えているうちに、先方が知りたいと思っていたこととぜんぜん違うことを教えてしまう」というのは教師の本務である。
それでよろしいのである。
ていねいにお辞儀してくれる生徒たちに手を振ってお別れして、倉吉駅に向かう。
高校生っていいですね、と同行の先生たちにしみじみ言ってしまう。
倉吉東高校のみなさん、どうもありがとう。
たいへん愉快でかつ有意義な一日でした。
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