ピュシスの贈り物

2009-11-19 jeudi

東京ツァー中。
大学での会議を終えて、ばたばたと新幹線に乗って東京は飯田橋の角川書店へ。
中沢新一さんとの対談シリーズの3回目。
「くくのち学舎」のキックオフイベント、神戸女学院大学の大学祭でのトークセッションに続いての短期集中おしゃべり企画。
新幹線車中で、中沢さんの最新作『純粋な自然の贈与』を読む。
じつにわかりやすい、よい本である。
「交換と贈与」という古典的な人類学のテーマが、(重農主義の再評価という)新しい視点から論じられている。
商業というのは本質的に等価交換であり、そこからは何も富は生み出されない。重農主義者たちはそう考えた。

「『純粋の商業は・・・等しい価値と価値との交換にすぎず、これらの価値にかんしては、契約者どうしの間には、損失も儲けもない。』なぜなら、『交換は何ものをも生産せず、つねにひとつの価値と等しい価値の富との交換があるだけで、その結果真の富の増加はありえない』(ケネー)からである」(中沢新一、『純粋な自然の贈与』、講談社学術文庫、2009年、100頁)

ところが農業生産だけは富をつくりだす。

「農業では地球が創造をおこなからだ。大地に春撒いた百粒の小麦種は、秋にはその千倍の小麦種に増殖をおこなう。この増殖分から、労働に必要だったさまざまな経費や賃金をさっぴいても残るものがある。ケネーが『純生産物』と呼んだ、この増殖分こそが、農業における剰余価値の生産をしめしている。」(Ibid.)

マルクスも、富の増殖については、流通過程以外のどこかで剰余価値が創造されていることについてはケネーと同意見だった。
だが、重農主義者とは違い、マルクスは「自然の贈与」ではなく、「労働力」が富の源泉だと考えた。
労働力は「ピュシス」の力である。
外部の自然は、労働者の身体を通して、贈与を行う。

「労働者は、商品という形に物質化された労働を、資本家に売っているわけではなく、この抽象的なピュシスの力である労働力を売っている。ここに資本主義世界における、剰余価値発生の秘密が隠されている。」(106頁)
「資本家は、商品に物質化された労働を買うのではなく、能産性そのものを買った。しかも、その価格は、労働力そのものに対する価値づけではなく(そんなことを可能にする数学的方法を、まだ人類はもちあわせていない)、抽象的な労働力が物質的世界の中にもった、たったひとつの足場である、労働する身体を維持するのに必要な価値(これは労働時間で換算される)で計られるのだ。」(107−108頁)

中沢さんはここでたいへん重要なことを書いている。
それはピュシスのもたらす富を計測する手だてを私たちは持っていないということである。
私たちの資本主義経済システムでは、富はすべて数値的に表示されるものだと考えられている。
数値的に表示されないものは富としては認定されない。
けれども、これはナンセンスな話で、富は本質的に考量不能なものであり、外部から労働者の身体を通じて、世界に滲出してくるものなのである。
いしい・ひさいちのマンガに安下宿共闘会議の諸君が麻雀をするエピソードがある。
全員金がなくて困り果てているときに、中の一人が「そうだ、麻雀をやろう」と言い出す。
「麻雀をやると金が儲ると聞いたことがある」
「それはよい考えだ」と四人で雀卓を囲んで牌をかき混ぜ始める。
延々と牌をかき回し続けるのだが、「どうもさっぱり金がもうからない」と暗い顔になる…というオチである。
このマンガは資本主義の流通過程からは富が生み出されないという、私たちが見落としがちな事実をみごとに描き出している。
富の滲出のためには「外部」が必要なのである。
今の例でいえば、潤沢な貨幣をもって「安下宿」世界に降臨し、彼らに豊かに貨幣をばらまいて去ってゆく「まれびと」が登場しない限り、富は発生しない。
麻雀は、この「まれびと」からの贈与を「安下宿」世界に取り込み、価値化するための装置であり、麻雀そのものはいかなる富も生み出さない(別に私が気負っていうほどの話ではないが)。
私たちが忘れがちなのは、ここでいう「富をもたらす外部」なるものが、農耕者における「自然」のように、対象的に把握することがむずかしいものだということである。
甲南麻雀連盟の場合、麻雀の勝敗はまったく副次的なものにすぎず、そこで富は、卓を囲むことで強化される会員相互のネットワークを経由してはじめて滲出してくる。
それはワイン、寿司、うどんなどの持ち込み、情報供与、ビジネス上の連携、ポストの提示といったさまざまなしかたで有形無形の「外部の富」を会員間に流通させる。
これはマリノフスキーが『西太平洋の遠洋航海者』で詳述している「クラ儀礼」と構造的にはまったく同一である。
クラ儀礼はソウラバという赤い貝の首飾りと、ムワリという白い貝の腕輪の交換である。
この装飾品にはまったく実用性がなく、他のいかなる品物とも交換することはできないので貨幣としての機能もない。
ただ、それぞれの装飾品には、それをかつて所有した人々についての伝承が「物語」として付随している。
これを長期間自分の手元にとどめておくことは許されず、次の交換相手へと手渡さねばならない。2 種類の装飾品はクラの円環を、互いに反対方向に、とどまることなく回り続ける。ソウラバは時計回りに、ムワリは反時計回りに、2 年から 10 年で島々を一周する。
クラ交易に参加できるのは男性だけで、参加資格を得るのは大きな名誉であり、「有名な」装飾品を手にしたものは、いっそう高い威信を手にする。
クラに参加したものは装飾品のやりとりをする相手として「クラ仲間」を有しており、「堅い契りの義兄弟」関係として生涯にわたって持続する。
クラ交易そのものは経済的交易ではない。
だが、クラの機会に、島々の特産品の交換が行われ、情報やゴシップがやりとりされ、同盟関係の確認も行われ、クラが必要とする遠洋航海のために造船技術、操船技術、海洋や気象にかんする知識、さらには儀礼の作法、政治的交渉のためのストラテジーなどを参加者たちは習得することを義務づけられる。
つまり、クラ交換という何の富も生み出さない無限交換のプロセスにおいて、「外部の富」は、共同体のネットワーク形成と儀礼参加者たちの成熟というかたちで世界に滲出しているのである。
ビジネスの場でゆきかっている商品やサービスや情報そのものは富を生み出すわけではない。
そのようなビジネスを行う相手を安定的に確保するためには、そこに「共生」の関係がうちたてられなければならないということと、ビジネスを円滑にすすめるためには当事者に人間的成熟が必須であるということが、ビジネスのもたらす「外部の富」なのである。
共生の関係のもたらす価値や、人間的成熟のもたらす価値を数値的に考量する手だてを私たちは持っていない。
中沢さんが言うように「そんなことを可能にする数学的方法を人類はまだもっていない」のである。
けれども、その数値的に考量不能な富を世界にもたらす以外に、経済活動には存在理由がない。
経済合理性で人間的諸活動の有用性を語る人々が構造的に見落としているのは、経済合理的に考量できるものは「富ではない」という事実である。
世界内部的な自己利益の追求だけを考えている人間は、ビジネスをしようとも、教育活動を行おうとも、医療を行おうとも、宗教活動を行おうとも、ピュシスからの贈り物を私たちの世界にもたらしきたすことはできない。
今回の対談のお題は「レヴィ=ストロース追悼」。
われわれの世代が多大なる学恩をこうむった偉大な構造人類学者について、ふたりでしみじみと語るはずだったが、だんだん話が暴走しはじめ、最後はユダヤ人と日本人の最大の差は農耕とのかかわりの深度に存するのでは、というまことに興味深い論件に至る。
来月の最終セッションの話題はそういうわけで、「農業」。
というか中沢さんのこのところの主題である「ピュシスからの贈与」という論件をめぐるものになるのではないかと予測されるのである。

いろいろお忙しい中沢さんとお別れして、汐留の共同通信社へ。
明日の予定だったインタビューを前倒して、『日本辺境論』の執筆意図ついて語る。
これまでの本とどこが違うかということを訊かれるが、実は本人だって、そんなことは訊かれるまでは考えたことがないので、いろいろ考える。
今回の本は、はじめて「外国人読者」をつよく想定して書いた、と思いつきでお答えする。
内容的にはだいたい日本人なら誰でも知っている話であるのだが(それにほとんどは私より詳しい人がいくらでもいるトピックである)、プレゼンテーションの仕方がいつもとちょっと違う。
「地政学的辺境」というシンプルな枠組みを最初から最後まで保持したのである。
日本が「地政学的辺境にある」という点については世界中誰でも合意してくれるはずである。
世界中の誰が読んでもとりあえず合意がいただけるプラットホームをまず設定して、そこから話を始める。
そうしないと、ややこしい話は通じない。
プラットホームというのは、喩えて言えば、授業を始めるときに「うしろの方、聞こえますか?」と訊いているようなものである。
「うしろの方、聞こえますか?」というメッセージについては、とりあえず誤解の余地がない。
聞こえない人でもちゃんと「聞こえませ〜ん」と答えるから、話は通じているのである。
あるいは「私の話、わかりにくいですよね」とか「私の言うことを軽々に信用しちゃダメですよ」とかいうのも同断。
メッセージの解釈について言及するメッセージのことを「メタ・メッセージ」と呼ぶが、それが今いう「プラットホーム」ということである。
「誤解の余地のないコミュニケーションのプラットホーム」が整っていないと、「誤解の余地の多いメッセージ」は発信できない。
コミュニケーションのプラットホームを確実に形成できるメッセージは、原理的には一つだけである。
「私の述べていることの真理性についてのそちらからの評価の切り下げ提案に私は同意する用意がある」という言葉である。
わかりにくいことを言ってすまない。
というのが典型的なプラットホームである。
「わかりにくいことを言ってすまない」というのは、「私の言っていることはたぶん理解しにくいであろうが、それは私の知性が不調であることに起因している可能性が高いことに私は同意する」という意味である。
そのような言明については「いや、そんなことはないですよ。けっこうわかるし」というリアクションか、「そうだよ、ぜんぜんわかんないよ」というリアクションかどちらかしかないが、どちらも私の言明の真理性にかかわるこの言明については、その内容をほぼ十全に理解していると断じてよいのである。
それがプラットホームになりうるメタ・メッセージである。
わかりにくい話をするときの要諦は、少なくとも「この話はわかりにくい」という判断についてだけは書き手と読み手のあいだに合意を形成することである。
今回の本は「外国人読者との間のプラットホームの構築」ということを配慮した。
この本をいちばん読んでほしいのは、東アジアの人たちとアメリカ人である。
彼らに「なるほど、わが隣人はこんなことを考えていたのか」ということを納得して頂いて、「まあ、それなら、あれやこれやの日本人の奇矯な言動もわからないことはないわな」と心鎮めて頂きたいと私は思っている。
そういう意味で、これはごく「機能的」な書物なのである。
「主張したいこと」があるというより「理解してほしいこと」があるのである。
「日本の都合を主張する本」ばかりで、その歴史的来歴や、わがほうにとっての主観的合理性のありようについて、非日本人にもわかるように説明しようとする本が最近はあまり書かれていないようなので、書いてみようと思ったのである。
というような説明をする(思いつきですけど)。
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