配偶者の条件

2009-10-18 dimanche

金曜日。朝、記念賞授賞式。うちの黒田くんが賞をもらったので、お祝いに行く。
大野篤一郎名誉教授による「セネカの幸福論」という講演がある。
ひさしぶりの大野先生のお話を聴く。
どこから始まりどこに行くのかわからない哲学的知性の遊弋。
忘れられかけた「古き良き大学」の空気が大野先生の笑顔から感じられる。
基礎ゼミでは「友人と恋人はどう違うか?」というお題。
おもしろい主題である。
これについては私見があるので、それを述べる。
「友を選ばば書を読みて、六分の侠気、四分の熱」という詩章がある。
知性、気づかい、向上心というようなものが友人を選ぶときの条件であるよということである。
では、配偶者の条件は何か。
与謝野鉄幹のこの「人を恋ふる歌」は広く人口に膾炙した「妻をめとらば才たけて、みめうるわしく、情けある」で始まる(男性配偶者の条件については言及していないが、同列に論じてよい)。
はたしてこれは「条件」と言えるか。
例えば、「書を読む」というのは誰が眼にもあきらかな客観的事実である。
「六分の侠気、四分の熱」は「六対四」という数値が示すように、計量的事実である。
つまり、「友の条件」は客観的、価値中立的なのである。
これに対して「配偶者の条件」は「才能」「美貌」「情愛」である。
これは一読してわかるとおり、いずれも「主観的価値」である。
「才能」は「埋もれた才能」「世に容れられぬ才能」という形容があるように、その人に「才能がある」と思う人間の眼にだけ見えて、余人には見えない。
「美貌」も然り。
多くのラブロマンスは「キミは自分の美しさに気がついていない」という殺し文句を伴うが、彼女の美しさは「自分で気づかない」くらいであるから、この言葉を発した人以外のほとんどの人にもこれまで気づかれないものだったのである。
「情愛」も同断。
「こまやかな情愛」などというものはクローズドの空間で私的に享受されるべきものであって、公的場面で開示されるべきものではない。
つまり、「配偶者の条件」はすべて私的、主観的だということである。
私的、主観的ということは、言い換えれば「一般的な仕方では存在しない」ということである。
「私」が「才能があって、美しく、愛情こまやか」だと判断すれば、残り全人類がそれに異議を唱えても、私の判断はゆるがないという「人の意見を全面無視」という大胆さをともなうがゆえに、配偶者の選択は劇的なものとなるのである。
もし、異性の配偶者適性の基準が客観的に存在したとすると、当然のことながら、「誰が見ても配偶者に適する個体」に求愛者が殺到し、そうではない個体は生涯を性的孤立のうちに過ごさねばならないことになる。
これでは種の保存が危ぶまれる。
それゆえに、性的配偶者の選好基準についてひとりひとりに「乱数表」がばらまかれており、「蓼食う虫も好きずき」ということになっているのである。
つまり、友の良否には客観的基準があり、配偶者の良否にはそれがないということである。
それは少しも悪いことではない。
配偶者の「才能」「美貌」「情愛」などについて世間に知られることが少なければ少ないほど、「この人のほんとうの人間的価値を知っているのはこの世で私ひとりだ」という確信は深まる。
私が「この人の人間的価値」の唯一の証人なのである。
私がいなくなったら、この人はそのすばらしい人間的資質を誰にも認められぬままに終わる可能性がある。
そして、この確信から導かれる遂行的結論は「だから、私は生きねばならない」である。
もし、あなたの配偶者が誰が見てもすばらしい人間であり、周囲の人々がそれをほめそやすとしたら、そのことは「人が羨望するような財を手に入れた」という満足感はもたらすかもしれないけれど、「だから、どんなことがあっても私は生きなければならない」という使命感はもたらさない。
もし、あなたが真に人間的な人であったとしたら、「人が羨望するような配偶者を独占していること」について、無意識的な「疚しさ」が生じるはずである。
「誰から見てもすばらしい人間」を私的に占有することについての「罪の意識」は、人間が共同的な生き物である限り、必ず生ぜずにはいない。
その行動は、どこかで「この人は他者たちと共有されるべきである」という不条理な結論にあなたを導いてゆく。そして、あなたは配偶者を、気づかないうちに、「なかなか家に居着かない」方向に押し出すようになる。
つまり、「誰が見てもすばらしい、みんなが羨む配偶者」を得た人間は、その代償として、「私がいなくても、この人の才能や美質は引き続き高く評価されるであろう」という確信を埋め込まれる。
それは「私は存在しなくてもいいのだ」というアイデンティティの危機を遂行的な結論として呼び込むことになるのである。
それゆえ、古来、配偶者の選択については、「できることなら、誰も羨まない人間を選ぶ方が無難である」ということがひそかな人類学的ルールとなっているのである。
もちろん、そのようなことは決して公言されない。
「どうして私と結婚したの?」
「だって、キミのことを誰も愛していないからさ!」
というような会話の帰結は明らかであろう。
これは「だって、キミのすばらしさを理解しているのは世界でボクひとりだからさ!」と言わねばならない。
そして、この二つの言葉は実は同じ意味なのである。
話はこれでは終わらない。
いまなかなか結婚できない方々が30代40代に多いが、その理由は彼らが「適切な配偶者についての一般的基準」というものがありうると考えているからである。
これはたいへんに問題の多い性イデオロギーである。
上で述べたように、「適切な配偶者についての一般的基準」というものがあるということは、この基準に照らしてランキングが高い異性は、すでにその条件によって、「あなたがその人の配偶者である必然性はない」ということになるからである。
多くの人の羨望の対象であるということは、あなたの「替え」はいくらでもいる、ということである。
誰でも自分と「代替可能」であるという自己認識がひとを幸福にすることはありえない。
しかし、私たちの社会は挙げてこの「人間的価値の数値的・外形的表示」に狂乱している。
それがどれほど致命的に私たちの自尊感情と自己愛を損なっているか、それについて私たちはもう少し真剣に考慮した方がよい。

基礎ゼミのあとは14時から19時半まで会議が三つ。
その後、『セオリー』の取材。入試部長室で20時まで写真撮影。それから御影に移動して、ペルシエでご飯を食べながら取材の続き。
お題は「教えるということ」。
「学ぶこと」についてずいぶんたくさん書いたりしゃべったりしてきたけれど、このところ「教えること」について問われる機会が多い。
「教えること」の本旨は「おせっかい」である、という持論を述べる。
詳細はいずれまた。
ペルシエのご飯もワインもたいへん美味しく、戸井くん、大越くん、ともに大満足。
講談社さま、どもごちそうさまでした。

土曜日は朝の10時から17時半まで大学で入試問題の点検作業。
一日ずっと座って、いろいろな人からの愚痴や不満や抗議にうなだれて聞き入る役である。
ああ、疲れた。
途中で、講演を頼まれていたある高校から詳細問い合わせのメールが入る。
「謝礼は交通費程度でよろしいでしょうか」ということだったので、お断りすることにした。
たしかに謝礼についての問い合わせのときに「お気持ちで」とは申し上げたが、交通費のみ支弁ということは「ノーギャラ」ということである。
ふつう、それが意味するのは、その人の仕事は「ギャラを払うほどのクオリティのものではない」という判断を先方がなされているということである。
そう判断するのは先方の自由であり、かつまたその判断に蓋然性が高いことにも私は同意するが、それと同じように、「おまえの仕事のクオリティは低い」と判定している人のところにわざわざ休日をつぶして出かけるほどの義理はないという私の側の判断にもご同意願いたいと思う。
なんだか脱力して帰宅。
作り置きの「肉じゃが」を食べながら、韓国映画「チェイサー」を見る。
キム・ユンソク(「太った桑田佳祐」)のブチ切れぶりと、ハ・ジョンウの超変態ぶりが素晴らしい(この変態男は『コピーキャット』のハリー・コニック二世以来の出来)。
ハリウッドでディカプリオ主演でリメイクするそうであるが(ハリウッドもほんとうに企画力が落ちたなあ)、キム・ユンソクが人を脅かすときの、あの異常なリアリティは出せないだろう。
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