鳥取で核について考える

2009-10-15 jeudi

水曜日はオフだけれど、毎週講演が入っている。
本日は鳥取西高校。
高校生相手の講演が二週続く。
三ノ宮(JRの駅名は「ノ」が入る)から「スーパーはくと3号」で鳥取へ向かう。
「はくと」って何の意味だろうと考える。
ぜんぜん思いつかない。
みどりの窓口でもつい「スーパー北斗」と言いそうになる。
あとで調べたら「白兎」であった。
帰り道に半睡状態でいるときに、「大黒さまが来かかると・・・」というメロディが頭の中を流れて、「どうしてこんな曲が?」と思ったら、駅に着く度に「因幡の白兎」のメロディーが車中に流されていたのである。
「スーパーしろうさぎ3号」でいいじゃないか。
なんで、「はくと」なんだよお。
その「はくと3号」の行きの車中でメールをチェックしていたら、日経から「原稿まだですか」という督促メールが来ている。
げ。
月曜締め切りの書評の原稿を忘れていた。
月曜火曜と『日本の論点』と司馬遼太郎ムックの原稿を書き飛ばしたので、もう仕事が終わったような気になっていたが、一つ忘れていたのである。
さいわいこの書評は「古い本の書評」という趣向のものなので、古い本であればよろしい。
ちょうど、鞄の中に岸田秀の『ものぐさ精神分析』の文庫本が入っていた。
机の上になにげなく置いてあったのを出かけに司馬遼太郎の対談本といっしょに鞄に入れておいたのである。
パソコンも実は鳥取日帰りタイトな日程だし、在来線は揺れるから車内での原稿書きもままならぬであろうから、荷物になるだけだし置いてゆこうかな・・・と一瞬は思ったのだが、思い直して鞄に入れておいたのである。
「なにげなく鞄に入っていた古典とパソコン」のおかげで鳥取へ行く車中でさくさくと原稿を書き上げる。
これを「持っていてよかったことが事後的に知れるようなものを先駆的に知ることのできる」高度の能力の発現とみるか、締め切りのチェックを忘れてぼんやりしているただの粗忽な人間の失態とみるかによって人間は二分されるのであるが、私がどちらであるかは言うまでもないであろう。
駅まで車でお迎えに来てくださる。
鳥取西高校はお城の堀の中にある。
名門校なのだ。
校長先生にご挨拶して、ごいっしょにお昼を食べてから、県庁のよこの「とりぎん会館」(「とりぎん」も県外者にはご理解いただきにくであろうが「鳥取銀行」の略称である)というずいぶん立派なホールで講演。
「学ぶ力」について90分しゃべった後に、生徒さんたちと質疑応答。
松本深志高校に続いて、生徒たちはたいへんシャープで愉快な質問を繰り出してくる。
核武装の可否について意見を問われる。
核抑止力が現に外交的なカードとして機能している以上、オバマ大統領のいう「核なき世界」というのは非現実的な選択ではないかというご下問である。
よい質問である。
「核抑止力」とは何かという原則的なことからご説明する。
それは「核兵器を使うかもしれない」という可能性がもたらす恐怖の効果である。
より正確に言えば、「どのタイミングで、どういう条件で核兵器を使うかについて予測が不可能であることのもたらす恐怖」の効果である。
アメリカは核兵器を「理性的」に使おうとしている。
だが、理性的に使われる限り、核兵器は「恐怖」をもたらすことができない。
だから、現に、アメリカの核はテロリストに対してはまったく抑止力として機能していない。
それはテロリストが潜伏しているさまざまな国家を非戦闘員こみでテロリストごと「吹き飛ばす」というオプションをアメリカが自らに禁じているからである。
つまり、テロリストにとってアメリカの核は「あってもなくてもこっちのやることには関係ない兵器」である。
けれども、仮にアルカイダが北朝鮮を相手にテロを行った場合には、北朝鮮がアフガニスタンとパキスタンのいくつかの都市をテロリストごと吹き飛ばすという可能性はアメリカがそれをする可能性より高い。
実は、核兵器の「正しい使い方」は、それがきわめてずさんに、非理性的に管理されているために、「どういうタイミングで発射されるかよくわからない」という恐怖のうちに仮想敵を置くことにあるのである。
その意味で言えば、バラク・オバマよりもウラジミール・プーチンよりも胡錦濤よりもニコラ・サルコジよりも、金正日の方が「核兵器の使い方」においては「正しい」。
ロシアの核兵器が久しくアメリカ国民を恐怖させていたのは、「どうもロシアの軍部はクレムリンの統制が及ばないらしい」という、敵国の統治システムの不具合が繰り返しアナウンスされていたせいである。
法治国家の、選挙で選ばれた、有徳で賢明な統治者が核兵器を管理しているならば、それは敵にとっては少しも怖いものではない。
アメリカの問題点はそこにある。
だから、アメリカでは、「アメリカの核」を恐怖させるために、「アメリカ軍は大統領の命令に従わずに勝手に核兵器を発射するかもしれない、よく統制のされていない軍隊である」という「神話」をあらゆるメディアを通じて繰り返し世界に喧伝しているのである。
頭の狂った好戦的な政治家や軍人が「暴走」したせいで、核兵器が法治国家の統制を離れて、「敵国に向けて発射されてしまいました」という映画やテレビドラマを私はこれまでにたぶん100回くらい見た。
これはもちろんアメリカ軍を貶めるために作られた話ではない。
そうでもしておかないと「アメリカの核兵器」はぜんぜん恐怖心を与えることができないということをアメリカ人だってわかっているから、「そういう話」を繰り返すのである。
「アメリカにも “金正日みたいな奴” がいて、それが核兵器をコントロールしているかも知れないんだぞ」という話をうるさく言い立てておかないと、核兵器なんかあっても、ぜんぜん怖くないからである。
バラク・オバマが「核なき世界」を宣言し、それについてノーベル平和賞が与えられた後に、アメリカ国内では一斉に「ふざけたことを言うな」という反発があった。
これは反発があって当然である。
オバマ大統領のような「理性」と「核兵器なんかオレら平気で使っちゃうもんね、だって、オレらバカだから」的な「非理性」が同時にアメリカ国内に併存していないと、核抑止力が効かなくなってしまうからである。
「キチガイ」が持っていると信じられているときに、「刃物」はその殺傷能力をもっとも効果的に、抑止的に用いることができる。
そういうものである。
核抑止力戦略というのは、「人間は愚鈍で邪悪だから、核を抑止できないかもしれない」という恐怖を心理的な基礎にして構築された戦略である。
パラドキシカルな構造だが、いかにも人間が作り出しそうなシステムではある。
という話をした上で、核抑止力戦略の根本的な危うさについて、質問した高校生にお答えする。
核兵器を抑止力として有効利用するためには、軍の中枢部に「あきらかに合理的に推論できないバカ(だと世界中から思われている人間)」を一定数、定期的に配備しておかなくてはならない。
「あきらかに合理的に推論できないバカ(だと世界中から思われている人間)」をつねに軍事部門の中枢に配備し続けなければならない防衛システムのもつ根源的な欠陥は、そいつが「『バカだと思われている』だけじゃなくて、ほんもののバカ」である可能性を原理的には排除できないという点にある。
わかりにくい話ですまない。
雨の中をディーゼルの因美線で三ノ宮に帰る。
10月11月はこういう講演の旅が続く。
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