鳩山由紀夫内閣が成立した。
新閣僚の所信表明の記者会見を遅くまで見る。
これまでの三代の自民党内閣では、新閣僚の所信表明なんか、一度も見たことがなかったのだが、やはり政権交代ということになると、何を言うのか興味がわく。
閣僚名簿を見て、世の中大きく変わったなあと思う。
会ったことのある人が二人(仙谷由人さんと福島瑞穂さん)閣僚に入っているからである。
お二人とも、わりと長時間、政治についてお話しした。
仙谷さんとは松井孝治、松本剛明、細野剛志という四人の民主党代議士のみなさんと、福島さんとは差し向かいで。
「ウチダと会って話がしたい」というような奇特な人が大臣になってしまうご時世なのだと思うと、まことに時代が変わったことが実感されるのである。
And the first one now will later be last
For the times they are a-changin'.
事務次官会議は廃止され、事務次官の記者会見の習慣も廃止された。
省庁を代表して公式な見解を述べるのは行政官ではなくて大臣であるべきだと藤井財務省が気色ばんで言っていた。
それを聴いて、「霞ヶ関支配」といわれる言葉が「行政官の横暴」ではなくむしろ「政治家の劣化」のことを指しているのだなあとしみじみ思った。
官僚のレクチャーを受けて、ペーパーをもらわないと答弁ができない大臣たちの姿を私たちはずっと見てきた。
予算委員会で野党議員に質問されて「これは専門的な問題ですので、担当官に答弁させます」と言って役人に答弁を譲って座ってしまった大臣がいた。
正直な人である。
ただ、こういう事態を「官僚支配」というのは日本語の使い方として間違っている。
「政治家の劣化」というべきだろう。
このような事態をなんとかしたいという民主党の意気込みはわかる。
でも、「政治家の劣化」を解決する方策として、「政治主導」を提唱するのは、論理的にはつじつまが合っていない。
「政権交代が実現した」ということから「政治家の質が変わった」と推論することは可能だが、「政治家の質が上がった」と推論することはできない。
間違いないのは一つだけで、それは選挙で選ばれた政治家たちは「直近の民意」を代表しているということである。
だから、「民意」を以て「質保証」に代えると新政権は告知すべきだろうと思う。
私たちは「ただしい政策」であるかどうかはわからないが、「有権者が求める政策」を実施する。
新政権ははっきりそう宣言すべきだろうと私は思う。
それでいいと思う。
デモクラシーというのは「そういうもの」だからである。
トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の中で、デモクラシーはアリストクラシーに比べて不完全な制度であるが、それでも美点があると書いている。
「アメリカのデモクラシーにおいて、民衆はしばしば権力を託する人物の選択を誤る。」
しかし、そのような「間違って選ばれた統治者」たちの手で現にアメリカは繁栄している。
なぜか。
それは「デモクラシーにおいて、公務員が他より権力を悪用するとしても、権力をもつ期間は一般に長くはない」からである。(アレクシス・ド・トクヴィル、 「アメリカにおけるデモクラシーについて」、岩永健吉郎訳、『中央公論世界の名著33』、中央公論社、1970 年、456頁)
デモクラシーが前提にする人間観は、人間はたいていの場合、権力を長くもつと「悪いこと」をするという経験則である。
だから、統治者を定期的に交替させるルールが必要である。
統治者が非常に有能であった場合、彼に交替を要求することは心理的にも、制度的にも困難になる。だから、できれば、統治者は最初からそれほど有能でない人間を選んだ方がいい。
統治者はただ民意の代表者でありさえすればよい。
それがアメリカのデモクラシーの本質だとトクヴィルは看破するのである。
「疑いもなく、支配者に徳と才とが備わっていることは、国民の福祉にとって重要である。しかし、それにもまして重要なのは、被支配者大衆に反する利害をもたぬことである。もし民衆と利害が相反したら、支配者の徳はほとんど用がなく、才能は有害になろうからである。」(457頁)
トクヴィルがこの文章を書いたのはアメリカが建国して 60 年ほどのことである。
その時点でトクヴィルはよくデモクラシーの本質を見抜いたと思う。
有能で有徳だが、「民衆の利害と相反する」政策を行う統治者よりは、さして有能でも有徳でもないが、「民衆と利害を共にする」統治者の方が好ましい。「賢い統治者」よりは「身の丈にあった統治者」の方が好ましい。
それがデモクラシーの公理である。
私は「官僚主導」から「政治主導」へというのは、その意味でデモクラシーの「本道」だと思う。
日本の官僚たちは、必ずしも有徳ではないが、多くの場合政治家たちよりも有能である。
そして、自分たちが構想した国家ヴィジョンが「民意」に従うよりも国益の増大に資すると判断した場合には、「民意」に抵抗することを厭わない。
何が悲しくて「有能な官僚」が「無能な政治家」や「愚鈍な選挙民」の風下に立たなければならぬのか、と官僚たちは不満げに言うであろう。たしかに理屈に合わない。
だが、それがデモクラシーなのだ。
「ただしい官僚」の意見よりも「間違った民衆」の意見を優先する。
それはその方が「ただしい」からではない(「ただしい」のは官僚の方なのだから、民衆の意見は間違っているに決まっている)。
けれども、短期的にはそれで失敗があっても、長期的に見た場合にはその方が利得が大きいのである。
というのは「官僚」たちは自説に固執するが、「民衆」はころころ意見を変えるからである。
官僚の判断が仮に99%ただしくても、1%の誤りを犯すことがある。だが、そのとき彼らは「勝率99%」を理由にして、その1%の誤りを決して認めない。
民衆の判断は多くの場合誤るが、彼らは「何だかこの政策はうまく行っていない」と感じたら、100%の確率で意見を変える。
ビューロクラシーとデモクラシーの差はこの1%の差にしかない。そして、その1%が国家存亡の分岐点になることがあるという経験知が私たちをデモクラシーに導いたのである。
このあと、メディアは新政権の掲げる「政治主導」に対して、かなり批判的な態度で臨むと思う。
「政治主導」というが、当の「政治家の質」は誰が担保するのか。政治資金やら下ネタスキャンダルやらワキの甘い与党政治家についての報道がなされて、「こんな連中に統治者の資格があるのか」という論を立てるものが出てくるだろう。
その指摘はまことに「ただしい」。
でも、それは「デモクラシーのコスト」として受け容れなければならないのである。
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(2009-09-17 11:12)