井上雄彦の天才性について

2009-09-16 mercredi

茂木さんが司会をしているNHKテレビの「プロフェッショナル」に井上雄彦さんが出るというのでテレビを見る。
井上さんがマンガについて語る言葉があまりに素直で深いので胸を衝かれる。
今、日本の作家でも思想家でも、自分の仕事について、これほどまっすぐに本質的な言葉を語れる人がいるだろうか。
私は思いつかない。
井上さんは外部評価を得るために描いているわけではないし、読者の共感を得るために描いているのでもない。
キャラクターたちはある段階からは固有の生命をもって動き始めており、彼らにそのときどきに最適な言葉と表情と動きを与えることがマンガ家の仕事だと井上さんは思っている。
「登場人物が勝手に動き出して・・・」ということは作家でもマンガ家でもよく言うことである。
たしかに、ある程度技術にすぐれたクリエイターなら、彼らが造形した虚構の人物が、物語の中で勝手に動き始め、勝手にしゃべり始めるということはあるだろう。
けれども、それで終わりではない。
「キャラ」たちもまた生身の人間の場合と同じで、物語の中で無数の選択を前にする。
何を言うべきか、何をなすべきか、彼らも迷う。
彼ら自身にとって、もっとも必然性のある言葉は何か、行為は何か。
それを言うことで過去から解放され、それをすることで未来が拡がるようなものがあり、そうならないものがある。
わずか一言で「キャラ」が同一人物でありながら、まったくの別人になってしまうことがある。
今の井上さんの技術的な関心は、一人の登場人物の生身から絞り出されて来る決定的な一言をつかまえること、その語の奥行きと深さを担保する顔を描くこと、この二点に集中している。
「顔を描く」画力において、日本のみならず世界のマンガ家の中でも井上雄彦に伍する描き手はもういない。そのことは誰でもが認めるだろう。
でも、井上雄彦の天才性は、その「キャラ」以外の誰も口にすることがなく、それを口にしたことによって、その「キャラ」が「その人」自身になるような決定的な一言を探し求める真摯さのうちにむしろ存すると私は思う。
もう一つ気がついたことがあった。
井上さんは『スラムダンク』でも『バガボンド』でも『リアル』でも、「短期間内に急速に成熟しなければならない少年の成長のドラマ」という話型を選んだ。
この「時間的切迫」のもたらすサスペンスは井上雄彦に限らず、多くのすぐれた少年マンガに見ることができる。
それが「締め切り」を前にして、短期間のうちに、自分で納得のゆく物語を作り上げ、絵を描き上げなければならないマンガ家自身の切迫と同型的なのだということに気づいた。
「描き手自身が成長しない限り、登場人物が成長することもない」と井上さんは語っていたけれど、それは言い換えると「締め切りまでに自分が人間的に成長しなければ、登場人物が前回よりも人間的に成長することはありえない」ということである。
これほどタイトな条件を自分に課して仕事をしている人間は、いまの日本にはほとんどいない。
このまま行くと井上雄彦のために「ノーベル漫画賞」を創設しなければならなくなるかも知れない。
いや、ほんとに。
それにしても、このような天才を生み出し得た日本のマンガ文化の土壌の厚みと豊穣性は正しく評価されなければならないだろうと思う。
どうして、日本のマンガはこれほどクオリティが高いのか。
それについては『日本辺境論』の終わりの方に書いたので、読んでね。
それから、テレビを見ていたら、井上さんのアトリエの仕事机の後ろの書棚に『死と身体』があった。
わお。
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