夏の終わりに

2009-09-04 vendredi

毎日締め切りに追われている。
『日本辺境論』の締め切りまであと3日だが、明日は稽古、明後日は歌仙会で終日ふさがっているので、書けるのは実質今日一日しかない。
でも、今日締め切りの『プレジデント』の書評があるので、それをまず書かなければいけない。
毎日のように講演依頼と取材依頼と寄稿依頼が来る。手紙で来て、ファックスで来て、メールで来て、電話で来て、本人が来る。
もちろん片端から断っているのだが、それでも断り切れないものが澱のように堆積して、気がつくとスケジュール表は醜く汚れている。
結果的にひとつひとつの仕事の質は劣化するばかりで、こんな手抜き仕事ばかりしていれば、遠からず私に対する業界的評価は地に落ちるであろう。
それで仕事の依頼が減るのは大歓迎なのであるが、本が売れなくなると退職後のたずきの道が立ちゆかぬ。
仕事は減らしたいが、本は売りたい。
「痩せたい、でも、食べたい」という二律背反と同じである。
結局、「自分がやりたいこと」を断念して、その時間を「頼まれた仕事」の質の劣化をおしとどめるために投じるということになる。
夏休みになったら淡路島のタチバナさんの農園を見に行くつもりでいたのだが、「夏休み」というのが結局ないことがわかったので、断念せざるを得ない。
甲南麻雀連盟の例会ももう二ヶ月開催していない。
海にも山にも高原にも湖にも、どこにも行っていない。
池上先生が私のことを「日本でいちばん不幸な人」とお呼びになるのももっともである。
でも、こんなに働くのもあと半年だけである。
2010 年度は大学在職最後の年であるから、本務に専念する。
学外の仕事は一切お断りである。
最後の一年は授業と会議とクラブの指導「だけ」に専念する。
あなたは会議をあんなに嫌っていたじゃないかと言われる人もいるであろうが、教授会というようなコンベンションとかかわりをもつのも考えればこれが生涯最後なのである。
そう思うと、あの不条理かつ無意味な時間がたまらなく愛おしく思えてくるから不思議である(ほんとに)。
2011年度からは晴れて天下無用の人である。
毎日武道の稽古をして、あとは小説とマンガを読んで、駄文を書き散らして、遊び暮らすのである。
そんな生活を夢見て、今日も「最後の一鞭」を自分に当てているのである。
がんばれ私。あと半年の辛抱だ。
スケジュール表を見ると、もう一つ月曜締め切りの原稿がある。
財務省から頼まれたものらしい。
なんで、財務省の広報誌の原稿なんか引き受けてしまったのかまったく記憶にないが、引き受けてしまったものは仕方がない。
とりあえず書く。
さらさら。
民主党と自民党は旧田中派と旧福田派からのスピンオフであるから、この政権交代は福田派から田中派への政権交代として理解すると、理路が通るという「いつものネタ」である。
ご存じのとおり、福田赳夫と田中角栄は 1970 年代から 80 年代にかけて15年にわたって「角福戦争」と呼ばれる激烈な党内闘争を展開した(日本の政党政治史で派閥間抗争が「戦争」と呼ばれたものはかつて存在しない)。
福田は一高-東大-大蔵省という典型的な都市エリートコースを歩み、田中は雪国の尋常小学校卒業、土建屋から叩き上げた生粋の党人派である。
両者の対立は一政党内における派閥抗争というにとどまらず、ある種の「疑似階級闘争」でもあった。
それぞれの国家戦略は彼らの固有の「成功体験」を反映している。
福田は都市エリートに資源を集中し、エリートたちが権力と財貨と情報を占有することで日本を牽引してゆく「一点突破」型の国家戦略を選び、田中は列島全体に広く資源を分配し、弱者の社会的上昇を支援する「ばらまき」型の戦略を選んだ。
これは中国における鄧小平の「改革開放路線」と毛沢東の「農村が都市を包囲する」路線の対立とほとんど同型的である。別に驚くほどのことではなく、国家経営の方法としては結局この二つしかないのである。「上」を引っ張り上げるか、「下」を押し上げるか。
どちらもめざしているところは同じであり、その過程で生じる問題点が違うだけである。
「都市型」戦略は過渡的に地域間・階層間格差を拡大し、競争を激化し、能力主義的に社会を再編する。
「地方型」のばらまき的公共事業では道路や新幹線やハコモノはできるが、政官業の癒着が進み、贈収賄がはびこる。
エリート主義者は権力の一極集中をめざすのだが、個人崇拝に対してはナーバスであり、エスタブリッシュメント内での「フェアな」利益分配と強者間での合意形成を重んじる。
反エリート主義者は「自分はエリートではない」という被害者意識の前段から推論するので、「だから私ひとりにいくら権力や財貨を集中しても、それで『とんとん』である」というふしぎな算盤を弾く。その結果、政治目的は「分権的」だが、政治手法は「中央集権的」になる。
どちらが「いい」というものではなく、両方を適宜按配するしかないのだが、綱領的整合性ということを考えると、どちらか一方の政略「だけがいい」ということにしておかないと政治組織は保たない。
今回の選挙で有権者は「田中派政治」への回帰を選んだ。
ただ、道路やハコモノについては飽満感があり、それだけの財政的余裕ももうない。
だとすれば、育児支援とか、教育負担の軽減とか、雇用環境の改善とか、高齢者障害者への支援といった弱者支援策に特化するしか独自性の余地はない。
けれどもこれらの施策には景気を浮揚させる力はない。
自民党と財界はいずれ「民主党のせいで経済がダメになった」と言いだし、「そうかもしれない」と思った有権者はまた福田派政治に回帰する道を選ぶことになるだろう。
それが「政治的成熟」ということではないか(「成熟」というより「老衰」と言った方がいいかもしれないが)。
同じようなことを昨日どこかの新聞からの電話取材でも話したので、それをそのまま書く。
でも、こんな話を財務省の広報誌の「巻頭言」にほんとうに掲載してよろしいのであろうか。
激怒のあまり脳溢血で倒れる政治家や官僚や財界人が出ても私は知らんよ。
平川くんがブログで今回の総選挙の総括をしている。
http://www.radiodays.jp/blog/hirakawa/
みごとな分析である。
これまでのところ新聞や雑誌で読んだどの分析よりも深くまで切り込んでいる。
ぜひお読み頂きたい(っていっても、だいたい私のブログに来る人は平川くんのも読んでるんだよね)
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