書評の憂鬱

2009-07-28 mardi

先週から、関川夏央さんの『「坂の上の雲」と日本人』の文庫版解説を書いて、バッキー井上さんの『京都店特撰』の解説を書いて、橋本治さんの『明日は昨日の風が吹く』の解説を書いた。
解説と書評の依頼が多い。
知り合いの著作についてはお引き受けしているが、連載の書評や、新聞の書評委員の依頼はお断りしている(うっかりひとつだけ連載の書評を引き受けてしまい、ひどく後悔している)。
もちろん書物についてあれこれ論じるのは私の好むところであり、ほうっておかれてもいくらでもやるのだけれど、他人から頼まれて仕事としてやるのはあまり楽しくない。
解説や書評を書くということになると、愉悦的読書が許されないからである。
何を書こうか考えながら、あちこちに付箋を貼ったり、赤鉛筆で線を引いたりして読むのと、寝転がってけらけら笑いながら読むのとずいぶん気楽さが違う。
なんだか一冊分だけ読書の快楽を損したような気になる。
ぶつぶつ。
それにどうしても納得がゆかないのは、書評というものが原則として新刊についてしかなされないことである。
書評の連載をしている某誌では発行日まで指定されていて、それより以前に出た本は書評することができない。
なぜか?
私にはその理由がわからない。
かつて存在したすべての書籍は、そのつど書評の対象となってよろしいのではないか。
発行年月日にかかわらず、最近になって縁あって遭遇した本や、昔読んでいるのだが、そのときにはあまりぴんと来なかったことが、今になって突然「あ、そうか。そうだったのか」と腑に落ちた本というのは、「今」書評する価値があると思う。
その本がたまたま私の意識の前景にせり上がってきたのは「現在」の何かがそれを読むことを私に要請したからである。
その「何か」について考えることの方がはるかに知的に広がりのある場所へ私たちを連れ出してくれるのではないか。
私が今書評したい本は司馬遼太郎の『坂の上の雲』と丸山眞男の『現代政治の思想と行動』であるけれど、いかなる書評欄もこの申し出を受け容れてはくれまい。
私にはその理由がわからない。
すぐれたテクストにはさまざまな読み筋がある。
長い時間が流れて、今になって発見された読み筋というものがあるはずである。
それについて考えることは「書評」ではないという判断をなぜメディアの書評欄は下しうるのか、理由を誰か教えて欲しい。
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