変化が好きなのキライなの

2009-07-07 mardi

朝起きて、ねぼけ眼で新聞を開くと、そこに自分の顔写真があって目が合うというのは、あまり気分のよろしくないものである。
今朝の毎日新聞でも、兵庫版で県知事選についてコメントをしている。
私は別にコメントすることなんかないので「コメントすることなんか、別にありません」と最初はお断りしたのである。
では、どうしてそういうふうに有権者の関心が低いのかを含めてコメントを・・・ということで、しかたなく取材を受けたのである。
でも、取材されると、やはりない知恵をしぼって、いろいろ考えるものである。
私が思いついたのは、国政は激しく変化することを好む領域であり、地方政治は惰性が強くて、あまり変化を好まない領域だということである。
そういう社会の変化や民意の変化に対する「感度」の差が国政と地方自治のあいだにはある。
別に誰が決めたわけでもないが、そうなっている。
誰が決めたわけでもなくそうなっていることにはたいていの場合、深く考えないとわからない理由がひそんでいる。
メディアは地方自治も国政と同じようにめまぐるしく変化することを望んでいる。
「地方選挙は国政の前哨戦」という言い方をメディアが好むのは、そうである方が、そうでない場合より、メディアにもたらされる利益が多いからである。
現に、今度の東京都議選の開票速報の視聴率は、それが「政権末期の麻生内閣の命運を占うものだ」とメディアが言えば言うほど、高くなる(そして、CMの出稿数が増え、民放の財政は一息つく)。
メディア自身は気づいていないが、メディアは社会が激しく変化することから、そうでない場合よりも多くの利益を得るように制度設計されているので、無意識的にできるだけ多くの機会に「激しい変化」を望むようになる。
激しい変化がそれほど望まれていない場合にも望むようになる。
そのメディアそのもののバイアスをメディアは勘定に入れないということを勘定に入れた方がいい。
ここ数年、初当選のときにメディアを賑わした知事たちのほとんどは地方自治を離れた。
それも当然だと思う。
この人たちは「激しい変化」を地方にもたらすために鳴り物入りで登場したのであるが、地方自治が許容できる変化には限界があるからである。
どちらかといえば、国政は政治的幻想で動くが、地方政治は生活実感で動く。
幻想は振り幅が大きいが、生活実感は「食って、寝て、仕事して」であるから、変化の振り幅がない。
だから、メディアの支援を受けて地方自治に登場した知事たちは任期が2年ほど経った段階で、「もうメディアの注目を浴びるような変化を起こす余地がない」ことに気づく。
変えるだけのことは変えてしまったので、もうすることがないのである。
あとは公共建築物の落成式でテープカットしたり、スポーツ大会で祝辞を読んだり、“ミスさくらんぼ” の表敬訪問を受けたりすることが仕事の半分くらい・・・という「飾り物」になってしまう。
石原東京都知事は週に2日か3日しか登庁しないそうであるが、私は彼が例外的に怠けものであるとは思わない(エネルギッシュな人だからね)。ただ、知事の仕事のうち「オレがやらなくてもいい仕事」を選別したら、全体の60%くらいがそうだったということなのだと思う。
数日前に書いたように私のかつての岳父は県知事であったが、退屈のあまり、三期目はもう半分眠っているような人になっていた。
地方自治というのは「そういうもの」だと思う。
そういうと、メディアはお腹立ちであろう(自治体首長や地方議会の議員のみなさまも激怒されるであろう)。
しかし、上から下まで、国政も村議会も、ひとしなみに「わっせわっせ」的に変化し続ければよろしいというものではないのではないか。
私は変化を好むという点についてはまず人後に落ちない自負がある。
私ほど退屈を嫌う人間に私はこれまで会ったことがない。
私はあまりに退屈することが嫌いなので、私の辞書から「退屈」という文字を削除したほどである(同じ理由で私の辞書には「敗北」という文字もない)。
その結果、私はどのようなつまらぬことのうちにも興味深い論件を見出し、それについてうるさく分析して時間を潰す術を会得したので、ほとんど退屈することのない境地に達したのである。
それくらいに「変化を好む」人間がこう言っているのだから信用して欲しいと思う。
真に変化を好む人間は「変化しっぱなし」という事態の常同性に耐えることができない。
「おい、また変化すんのかよ」と思ってしまうのである。
「いい加減に目先変えろよ」と思ってしまうのである。
それゆえ真に変化を好む人間は「変化したり、変化しなかったりする」という「変化の仕方が変化する」という次数の一つ高い変化を求めるようになる(そのうちそれにも飽きて「変化の仕方が変化する仕方が変化する」ことを求めるようになるのかもしれない)。
だから、地方自治から国政まで、ノベタンで「自民か民主か二者択一」という「どこを切っても金太郎」的状況にたちまちあくびが出てしまうのである。
それとは違う争点があってもよいし、あるべきだと思う。
しかし、メディアを徴する限り、彼らは「それとは違う争点」にはまったく興味がないようである。
ああ、メディアというのはほんとうに変化が嫌いなんだな・・・としみじみ思うのである。
メディアが好きなのは「予測可能な範囲でしかものごとが変化しないような変化」である。
しかし、世の中はそのような自分で好きに設定した許容範囲の中でだけ変化するものではない。
私の社会にカタストロフをもたらす変化は定義上必ず予測不可能なかたちで訪れてくる。
そして、私たちの国のメディアはそのような変化に対する想像力の訓練を組織的に怠っている。
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