失敗の効用

2009-06-01 lundi

下川正謡会の本番が終わる。
社中のわれわれにとっては「一年で一番長い日」である。
楽屋でドクター佐藤とお茶を飲みながら、「どうして、オレたち、こんなに苦しいことを自腹切ってまでやってんだろ」と顔を見合わせる。
舞囃子で能舞台に立つことのストレスに比べたら、学会発表なんか、何でもないですからねとドクターが答える。
ほんと。これに比べたら、講演とか学会発表とか、ピクニックみたいなもんだよね。
なるほど、そういう訳か。
人間は同時に二つの苦しみを苦しむことができない。
私は前に激しい胃痙攣の発作を起こしたとき(わさび漬けをアテに白ワインを飲んだのである)、廊下のドアにしたたかに顔面を打ち付けて顔の半分を紫色に腫れ上がらせたことがあるが、このときも、胃痙攣の発作が治まるまで、顔に痛みがあることに気づかなかった。
なるほど、そういう訳なのだよ。
われわれは年に一度この舞囃子の舞台というものがあって、そのストレスで胃に穴があくような思いを一年中している(ストレスが消えるのは本番のあとの一週間ほどだけである)。
そのストレスがあまりに苦しいので、その他のストレスフルな出来事が(よく考えてみたらたくさんある)どれも「舞囃子の苦しみに比べたら、屁のカッパ」に思えてしまうのである。
舞台上で道順がわからなくなったときの絶望感に比べたら、講演で絶句することなど冗談のようなものである。
「あれ、オレ何しゃべってたんだっけ?」と言って笑いをとることが講演では許されるが、舞台で「センセイ、これからどーすんですっけ?」と訊いたりすることは天地がひっくり返っても許されないのである。
詰める歩数が違うと叱られ、拍子の間が悪いと叱られ、目付が低いと叱られ、舞扇の角度が違うと叱られるという、文字通り「一挙手一投足が規矩に従っている」という状態を到成しなければ舞というものは成り立たないのである。
私のようにふだんからちゃらちゃらと好き放題にしている人間にとって、これがどれほど厳しい試練であるかはよくよくご理解いただけるであろう。
しかも、これだけストレスフルな経験でありながら、舞台上でどのような失敗をしようと恥をかこうと、それは私どもの実生活には何の関係もないのである。
私たちの失敗や不出来は誰にも迷惑をかけない。
それで命を取られることもないし、失職することもないし、減俸されることもないし、家族や友人の信頼や愛を失うこともない。
何の実害もないのである。
これほどのストレスが加圧されていながら、失敗しても何のペナルティーもないのである(下川先生は本番前はこちらの体温が下がるほどに手きびしいが、本番終了後は決して過去を振り返らず「はい、首尾ようおできになりましたな」と水に流して、もう来年の話に入るのである)。
変でしょ。
不思議な装置である。
昔の男たちは「お稽古ごと」をよくした。
夏目漱石や高浜虚子は宝生流の謡を稽古していた。山縣有朋は井上通泰に短歌の指導を受けた。内田百閒は宮城道雄に就いて箏を弾じた。
そのほか明治大正の紳士たちは囲碁将棋から、漢詩俳諧、義太夫新内などなど、実にさまざまなお稽古ごとに励んだものである。
植木等の歌に「小唄、ゴルフに碁の相手」で上役に取り入って出世する C 調サラリーマンの姿が活写されているが、1960 年代の初めまで、日本の会社の重役たちは三種類くらいの「お稽古ごと」は嗜んでおられたのである。
なぜか。
私はその理由が少しわかりかけた気がする。
それは「本務」ですぐれたパフォーマンスを上げるためには、「本務でないところで、失敗を重ね、叱責され、自分の未熟を骨身にしみるまで味わう経験」を積むことがきわめて有用だということが知られていたからである。
本業以外のところでは、どれほどカラフルな失敗をしても、誰も何も咎めない。
そして、まことに玄妙なことであるが、私たちが「失敗する」という場合、それは事業に失敗する場合も、研究に失敗する場合も、結婚生活に失敗する場合も、「失敗するパターン」には同一性がある、ということである。
私はこれまでさまざまな失敗を冒してきたが、そのすべては「いかにもウチダがしそうな失敗」であった。
「ウチダがこんな失敗をするとは信じられない」というような印象を人々に残すような失敗というものを私はこれまで一度もしたことがない。
すべての失敗にはくろぐろと私固有の「未熟さ」の刻印が捺されている。
だからこそ、私たちは「自分の失敗のパターン」について、できるかぎり情報を持っておくべきなのである。
そして、そのパターンを学ぶためには、「きわめて失敗する確率の高い企て」を実行するのだが、どれほど派手な失敗をしても「実質的なペナルティがない」という条件が必要なのである。
「失敗する確率が高い」のはそのときに私たちの思考や運動の「精度」が下がるからである。
しかるに、「精度」と「自由度」は相関するので、思考・運動の自由が抑制される条件を課されさえすれば、私たちはシステマティックに失敗する。
「お稽古ごと」というのは無数の「約束事」(どうしてそういう決まりがあるのか、その起源について誰も知らないような)で編み上げられているのだが、それはそうしておくと、「初学者はおもしろいように失敗する」からである。
素人がお稽古することの目的は、驚かれるかもしれないが、その技芸そのものに上達することではない。
私たち「素人」がお稽古ごとにおいて目指している「できるだけ多彩で多様な失敗を経験することを通じて、おのれの未熟と不能さの構造について学ぶ」ことである。
それは玄人と目指すところが違う。
玄人は失敗すれば職を失い、路頭に迷う可能性があるけれど、素人はそれがない。
私たち素人が玄人に対して持っている「アドバンテージ」はまさにそれだけなのである。
「それだけ」だとすれば、「それこそ」がお稽古ごとすべてに貫流する教化的な要素だということは論理的に推論せらるるのである。
とにかく今年の大会が終わって、ほっとした。
来年の大会は6月6日。
私は「野守」の舞囃子です。素謡は「大原御幸」。
ああ、また苦しい一年が始まる。
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