音楽との対話

2009-05-04 lundi

久しぶりの休日。
日曜日にお休みできるなんて、何週間ぶりであろうか。
うれしくて朝からお掃除をする。
机の上に積み上がっていた大量の本を片付け、さっぱりと仕事ができる状態にする。
仕事ができる状態になると仕事がしたくなる。
『食能研究』に「存在しないものとのコミュニケーション」、『合気道探求』に「凡庸な武道家の肖像」、『クロワッサン』に「私の選んだCD4枚」を書く。
これで二週間くらい締め切りの心配をせずに済む。
手が空いたので、このところ買い集めたCDをiTuneにダウンロードする。

「三橋三智也全曲集」「春日八郎全曲集」「ロックンロール三人男〜平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎」、「弘田三枝子ヒットキットパレード」「Klezmer Revolution」「American Graffiti」「Chuck Berry Best Selection」

どういう選曲なのかと訊かれそうであるが、これはいずれも斉藤言子先生との「音楽との対話」のネタで仕込んだ素材なのである。
テーマは「国語と音韻」。
オペラのアリアは高音部の響き(ジラーレと言うらしい)が「きかせどころ」なのだが、これは母音が湿潤で奥行きのあるイタリア語固有のもので、英語やドイツ語では、この底なしの「のび」がなかなか出せない。
という話から始まって、どの国語でも、その音韻体系のうちでとりわけ「のび」のある音をきかせどころにもってくることに成功した楽曲が「国民歌謡」として長く歌い継がれることになるという(考えれば当たり前な)仮説を音源をたどりながら検証してみたのである。
もちろん、ネタもとは大瀧詠一師匠の「日本ポップス伝」である。
英語はベルカントが似合わない。
英語のオペラは「変」である。
たしかに英語でもミュージカルはあるが、その主題歌がひろく国民歌謡として定着するということはないようである。
『サウンド・オブ・ミュージック』のようなブロックバスター的ミュージカルでも、今に歌い継がれているのは朗朗と歌い上げるドラマティックな歌曲ではなくて、「エーデルワイス」や「ドレミの歌」のような民謡系のものばかりである。
英語で歌った場合、いちばん「のび」が出るのは男性の中音の「鼻声」である。
カントリーの歌唱法である。
鼻声を頭骨に響かせると、どうも英語圏のオーディエンスの「ツボ」にはまるらしい。
ハンク・ウィリアムスからジェームス・テイラー、ニール・ヤングまで(エルヴィスやジョン・レノンも含めて)共通する歌唱法はこれである。
授業では、それからブルガリアの歌曲、スイスのヨーデル、モンゴルのホーミーといろいろな国民歌謡の「きかせどころ」を聞き比べ、最後に日本的な「ジラーレ」を代表する作品として三橋三智也を聴かせたのである。
三橋三智也は本條秀太郎さんによると「三味線弾き」であるから、三味線の「ツボ」で声を張る。
「ツボ」の話はその少し前に鶴澤寛也さんからうかがった。
日本語には固有の音韻の「ツボ」がある。
その話から、どうやって先人たちはロックのサウンドに日本語を載せたか、という問題について話す。
ロックのサウンドにどうやって日本語を載せるかという歴史的課題にはさまざまなソリューションが提示された。
ひとつは漣健児による訳詞。
漣は訳詞は「意味」ではなく、「音韻」を中心になされるべきだということにたぶん最初に気づいた人である。
その代表例として弘田三枝子の「子供ぢゃないの」を聴いてもらった。
歌唱法では、平尾昌晃がポール・アンカの歌唱法を換骨奪胎したのもが最初の成功したソリューションである。
この「フェロモン歌唱法」(@大瀧詠一)はその後西城秀樹を経由して、今日のヴィジュアル系全バンドの歌唱法に採用されてる。
そして、「はっぴいえんど」の実験。
松本隆が提出したソリューションは、「借り着」である音楽には「借り着」である言葉が「はまる」のではないかという卓見であった。
彼らは「身になじまない」バッファロー・スプリングフィールドのサウンドに、同じように身になじまない装飾的で技巧的な詩語を載せたのである。
「借り物」には「借り物」をあてがうと「ぴたりと決まる」というのは或る意味で「コロンブスの卵」である。
同じ原理で桑田佳祐はブルースフレイバーを日本語に載せるために「黒人のブルースの歌唱法を(無理して)真似たイギリス白人エリック・クラプトンの歌唱法を日本人が(無理して)真似る」という大技を繰り出した。
エリック・クラプトンの「無理ぶり」と桑田の「無理ぶり」が同質なので、クラプトンの Wonderful Tonight を桑田佳祐が歌うと「いとしのエリー」になる、というような話を三週間したのである。
こんな話をしてお鳥目がいただいてよろしいのであろうかとも思うのだが・・・
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