Googleとの和解

2009-03-23 lundi

Google とアメリカ作家組合のフェアユースと著作権をめぐる裁判が和解した結果、ベルヌ条約に参加している日本の著作権者たちも本年5月5日までの期限付きで、コピーライトにかかわる選択をしなければならないことになった。
和解条件によると、2009年1月5日以前に出版された書籍については、

(1)著作権者はGoogleに対して、著作物の利用を許諾するかしないか、許諾する場合、どの程度かを決める権利をもつ
(2)Googleの電子的書籍データベースの利用から生じる売り上げ、書籍へのオンラインアクセス、広告収入その他の商業的利用から生じる売り上げの63%を(経費控除後)著作権者は受け取る

その代償としてGoogleは著作物の表示使用の権利を確保し、データベースへのアクセス権を(個人には有料で、公共図書館や教育機関には無料で)頒布することができる。
ただし、プレビューとして書籍の最大20%は無償で閲覧できる。
ほかにもいろいろ条項はあるのだけれど、細かい話はみなさんには関係ないので割愛。
日本の著作権者たちはこれに対して

(1)和解に参加する
(2)参加を拒否する
(3)異議申し立てを行う
(4)和解に参加するが、特定の書籍の削除を求める

などのうちどれかを選択しなければならない。
電子書籍の販売は日本でも行っていることであるので、別に問題はないだろうが、「20%のプレビューに」については権利侵害であるとして、日本文藝家協会が反対していることは、さきにこのブログでも言及した。
少し前にこの件で新聞社から電話取材があった。
私の立場はもちろん「読者が私のテクストに触れる機会を最大化するあらゆる措置に賛成」というものである。
つねづね申し上げているように、私には「言いたいこと」があり、それを「一人でも多くの人に伝えたい」と思っている。
別にそれが特段世界にとって有用な知見だからと思っているわけではない。
「ちょっと思いついたことがあるので、誰かに言っておきたい」というだけのことである。
それはガリ版にこりこりと鉄筆で個人的なニューズレターを書いて、自宅で印刷し、自費で友人たちに配布していた中学生のときからの私の変わることのない姿勢である。
私がいまブログにあれこれ書いているのは、「ガリ版」の直接的な延長であり、テクノロジーは進化したが、書いている当人のモチベーションは中学生のときと同じである。
手をインクで黒く汚してガリ版刷りをしている中学生の私のところにある日Googleがやってきて、「これこれ、そこの少年よ、君の著作物を電子的にデータベース化して、世界の読者の閲覧に供して差し上げようではないか」と申し出たら、私は熱いハグでお応えしたであろう。
私の場合は、テクストを書くことで「一円でも多く金を稼ぎたい」ということより「一人でも多くの人に読んで欲しい」ということの方が優先する。
ただ、私はそれを原理主義的に主張しているわけではない。
「専業物書き」が職業的に成立しなくなると、読者は困る。
すぐれた書き手が書くことに専念できる環境は読者の利益のためにもぜひ担保すべきものである。
そのためにはテクストの「交換価値」を生み出すための市場が必要である。
しかし、テクストは商品ではない。
テクストを商品と「みなす」のは、そうした方がそうしないよりテクストのクオリティが上がり、テクストを書き、読む快楽が増大する確率が高いからである。
「テクストを書く快楽、読む快楽」がすべてに優先しなければならない。自余のことは、その快楽を増進させる上でどれほど効果的かという尺度に基づいて考量されるべきである。
というのが私の考え方である。
著作権の保護が快楽を増進させるなら、私はそれに賛成するし、ウェブでのテクスト頒布が快楽を増進させるなら、私はそれに賛成する。著作権の保護とウェブ上でのテクスト閲覧が背馳するなら、そのどちらか、より「テクストを書き、読む快楽」を増進させる方に私は賛成する。
何度も書いたことを繰り返すが、私たちは「無料で本を読む」というところから読書人生をスタートさせる。
これに例外はない。
家の書棚にある本、図書館にある本、歯医者の待合室にある本などをぱらぱらめくるところから始めて、私たちはやがて「自分の本棚」を有するようになる。
自分の本棚に配架する本は自腹で購入した有料頒布のものに限定される。そこに公共図書館の本や他人の蔵書を並べることはルール違反だからである。
私たちは「自分の本棚」を自分の「脳内マップ」として他者の目にさらす。「こういう本を読んでいる人間」であると他人によって思われたいという欲望が私たちの選書を駆動している。そして、この欲望は多くの書籍を読み、十分なリテラシーを涵養しえた読者によってしか担われることができない。
だから、著作権者たちがほんとうに自己利益の増大を望んでいるなら、どのようにして「できるだけ多くの書籍を読み、高いリテラシーを身につけ、きわだって個性的な『自分の本棚』を持ちたいと願う読者たち」を恒常的に作り出し続けるかということを優先的に配慮するはずである。
自著がそのような書棚に選択され、「この人の書き物を書架に並べることは自分の知的・審美的威信を高めることになる」と思われることこそ(それが誤解であったにせよ)、もの書く人間の栄光であると私は思っている。
自著は「無償で読む機会が提供されたら、もう有償で購入する人はいなくなるであろう」と思っている人たちは、どこかで「栄光」をめざすことを断念した人たちである。
そういう「プロの物書き」が多数存在することは事実であるけれど、私は彼らを「物書きのデフォルト」とみなすことには同意しない。
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