je pense, donc ça se pense

2009-02-26 jeudi

24,25日と白浜で杖道会の初合宿。
杖道会はできてからもう10年くらいになる。
身体技法の研究というつもりで杖や居合を稽古していて、段位とか試合とかいうこととは無縁のクラブなので、合気道部の有段者が興味をもって入ってくるくらいで、他にはあまり会員がいなかった。
4年前に若さまとエクソシストあまのが入部してきて、杖道会プロパーの核が出来て、去年新一年生に5人部員が入って賑やかになった。
週一の稽古では物足りない、もっと集中的に稽古したいという要望が出てきたので、合宿をすることにしたのである。
白浜にしたのは、合気道の合宿が神鍋高原なので、「じゃあ、海のそば」というたいへん単純な理由。
2月の合宿だから「暖かいところ」がいい。
温泉もあるし。
それに和歌山は合気道部主将で杖道会員、二重国籍のサキちゃんの地元であるので、「合宿先探しておいてね」と頼んだら、「はいよ」と気楽に引き受けてくれた(いいやつだ)。
「よいこのしおり」も作ってくれた。
初合宿の参加者は、4回生主将の若さま(あまのはオックスフォード大学に留学中)、3回生サキちゃん、1回生マサキ、クロダ、モリ、ホリカワ、エグチの5人。それに院生のトガワさん、OG のヨハンナ、大学の杖道クラスの非常勤講師をしているウッキー。
ちょうど手頃な人数である。
白浜会館という広い建物を借りて、初日は13時半から17時、二日目は9時から11時45分まで、稽古をする。
ふだんより時間があるので、呼吸法をする。
呼吸法をしてから形を遣うと動きに「甘み」が出てくる。
神道夢想流杖道はもともとは黒田藩に伝えられた武技であるが、全剣連では競技として行われている。
私は武術の競技化に懐疑的(というより端的に反対している)人間なので、術技の巧拙を競うのではなく、ひとりひとりの身体感覚を高めることの教育的な有効性に目的を限定して教えている。
どう考えても、この女子学生たちが剣で人を斬ったり、杖で人のあたまをかち割ったりするような状況に遭遇する蓋然性は低いからである。
むかしの武士が武術を学んだのは、そういう機会に現にしばしば遭遇したからである。
そのような機会において「生き延びる」ことが切実な人間的課題だったから必死で修業したのである。
しかし、いまは他人に剣で斬りかかられるという状況に備えて身体訓練をすることの現実的必要性はきわめて低い。
サイコパスからいきなり斬りかかられる可能性はなくはないが、そのとき、腰間に一剣を佩刀しているとか、愛用の杖が手元にあって・・・という可能性はさらに低い。
リアルに護身術を学ぶのであれば、「鞄の角でこめかみをヒットする術」とか「ハイヒール両手持ちによる双峯貫耳」などを練習する方がはるかに実用的である。
現実的必要性のない身体技法を修業するためには、それとは別の動機付けが必要になる。
術技の巧拙を競い、数値化して、勝ち負けを楽しむ「スポーツ化」は、そのようにして発明された “苦肉の” 動機付けである。
だが、武道はスポーツではない。
武道がスポーツの「仮面」をかぶったのは歴史的理由があってのことである。
GHQ の禁制で息絶えようとしていた武道的な身体技法を後世に生き残らせるために1950年代の武道家たちが「スポーツ化」という迂路を選択したことは、戦術的判断としてありうるオプションだったと私は思う。
私がその時代に生きていたら、その判断に同意した可能性は高い。
けれども、これはあくまで緊急避難的な迂回である。
GHQ の占領体制が終焉した段階で、「武道はスポーツだと言ったのは、当座の方便で、武道はもちろんスポーツではない」という「変節の名乗り」をなすべきだった。
日本の武道史上最大の失敗は、生き残るために政治的工作をしたことではなく、政治的工作をしたことを隠蔽したことである。
幕末以来、明治維新、軍国主義イデオロギーへの荷担、敗戦という激しい変遷の中で、武道はさまざまな歴史的淘汰圧にさらされ、それに耐えて、そのつど「変身」を遂げつつ生き延びてきた。
それは一つの技芸の生き残り戦略としては妥当なものであったと私は思う。
けれども、それはあくまで生き残りのための「適応」であって、しばしば不本意なものであり、まして「進化」などではなかった。
だから、現状を「武道のあるべき姿である」とのほほんと言い放つことは武道家には許されない。
どのような「適応」によって、武道はどのように「変化」してしまったのか、それを冷静にトレースしていなければ、武道は「還るべき原点」を見失ってしまうであろう。
私は現代における武道の有効性を信じている。
女子学生たちに杖の打ち方、剣の抜き方を教えるのは、杖や剣を実際に道具として活用して欲しいからではない。
ましてや、「礼儀正しくなる」とか「日本の伝統文化に対する敬意が涵養される」とか「愛国心が身につく」とかいうような功利的理由からではない。
とりあえず学生たちには形を遣い、剣の抜き方納め方を稽古してもらう。
当面の課題は「刃筋が通る」というのはどういうことかを実感することである。
それは要するに「剣には剣固有の動線があり、人間は賢しらをもってそれを妨げてはならない」ということに気づくということである。
自分を主体として立てて、剣や杖を対象的に操作しようとしてはならない。
剣や杖には、それぞれ「お立場」というものがある。
だから、それを尊重する。
私自身の筋肉や関節や腱や靱帯にだって、やはり「お立場」というものがある。
だから、それを尊重する(しないとあとで痛い思いをする)。
そんなふうだから、武道の稽古をしていると、あちこち気を遣う相手ばかりで気疲れしてしょうがない。
だが、そうやって剣やら杖やら体術の相手やら自分の身体各部やら、すべてのもののはたらきを妨げないように気を遣っていると、「そもそも、この『気を遣っている』主体というのはどこにいるのか?」という深甚な疑問に逢着することになる。
主体って何?
武道はこのデカルト的省察をデカルトとは逆方向に進む。
「我思う」ゆえに「『我』在り」ではなく、「我思う」ゆえに「『思う』あり」の方に分岐しちゃうのである。
術技的には、主体なんてなくてもぜんぜん困らないし、むしろない方がましだからである。
この逆説的状況に学生諸君を投じるために、お稽古しているのである。
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