壁と卵(つづき)

2009-02-20 vendredi

村上春樹のエルサレム・スピーチについて二件の電話取材を受けたと書いた。
電話取材というのはむずかしい。
30分ほどしゃべったことを5行くらいにまとめられているコメントの場合には、「言いたいこと」が活字になっているということはほとんどない。
私が「言いたいこと」というよりは記者が「理解できたこと」が書いてある。
場合によっては記者が「言いたいこと」が私の名前で書いてあるということもある。
たぶん読む方もそれくらいに割り引いて読んでくれるだろうから、あまり硬いことは言わないつもりである。
それでも、わずかな字数では意を尽くせないことがある。
私がそのとき言いたかったことをここに書きとめておきたい。
それは「壁」というメタファーについてである。
もっとも一般的な解釈は「壁」を政治的な暴力装置、「卵」をその犠牲者と見立てることである。
もちろん、村上春樹自身もその解釈を否定しているわけではない。
What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high wall.
The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them.
This is one meaning of the metaphor.
「このメタファーは何を意味しているのでしょう? 場合によってはあまりに単純かつ明白です。爆撃機、戦車、ロケット弾、白リン弾、それらがこの高い壁です。卵とは、それによって押し潰され、焼かれ、撃ち殺される非戦闘員市民たちのことです。これはこのメタファーの一つの意味です。」

けれども、村上春樹はこう続けている。

But this is not all. It carries a deeper meaning. Think of it this way.
「しかし、それだけではありません。これにはもっと深い意味があります。こんなふうに考えてください。」
Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall.
The wall has a name: it is “The System.”
「私たちは誰もが、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちのひとりひとりは脆い殻に包まれた、ひとつひとつがユニークで、代替不能の命です。私はそうです。みなさんもそうです。私たちは誰も、程度の差はあれ、高く硬い壁の前に立っています。
その壁には名前があります。『システム』です。」
The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others—coldly, efficiently, systematically.
「『システム』は私たちを保護することになっています。けれども、しばしばシステムはそれ自身の命を持ち、私たちを殺し、また私たちが他者を殺すように仕向ける始めます。冷血に、効率的に、組織的に。」
I have only one reason to write novels, and that is to bring the dignity of the individual soul to the surface and shine a light upon it. The purpose of a story is to sound an alarm, to keep a light trained on the System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them.
「私が小説を書く目的はただ一つです。それはひとつひとつの命をすくい上げ、それに光を当てることです。物語の目的は警鐘を鳴らすことです、『システム』にサーチライトを向けることです。『システム』が私たちのいのちを蜘蛛の巣に絡め取り、それを枯渇させるのを防ぐために。」
I truly believe it is the novelist’s job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories—stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter.
This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.
「小説家の仕事とは、ひとりひとりの命のかけがえのなさを物語を書くことを通じて明らかにしようとすることだと私は確信しています。生と死の物語、愛の物語、人々を涙ぐませ、ときには恐怖で震え上がらせ、また爆笑させるような物語を書くことによって。
そのために私たちは毎日完全な真剣さをもって作り話をでっち上げているのです。」

そして、唐突に村上春樹は彼がこれまで小説でもエッセイでも、ほとんど言及したことのなかった父親について語り始める。

My father passed away last year at the age of ninety.
He was a retired teacher and a part-time Buddhist priest.
When he was in graduate school in Kyoto, he was drafted into the army and sent to fight in China.
As a child born after the war, I used to see him every morning before breakfast offering up long, deeply-felt prayers at the small Buddhist altar in our house.
One time I asked him why he did this, and he told me he was praying for the people who had died in the battlefield.
He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike.
Staring at his back as he knelt at the altar, I seemed to feel the shadow of death hovering around him.
「私の父は昨年、90歳で死にました。父は引退した教師で、パートタイムの僧侶でした。京都の大学院生だったときに父は徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後生まれの子どもである私は、父が朝食前に家の小さな仏壇の前で、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見ました。
ある時、私は父になぜ祈るのかを尋ねました。戦場で死んだ人々のために祈っているのだと父は私に教えました。
父は、すべての死者のために、敵であろうと味方であろうと変わりなく祈っていました。
父が仏壇のに座して祈っている姿を見ているときに、私は父のまわりに死の影が漂っているのを感じたように思います。」
My father died, and with him he took his memories, memories that I can never know. But the presence of death that lurked about him remains in my own memory. It is one of the few things I carry on from him, and one of the most important.
「父は死に、父は自分とともにその記憶を、私が決して知ることのできない記憶を持ち去りました。しかし、父のまわりにわだかまっていた死の存在は私の記憶にとどまっています。これは私が父について話すことのできるわずかな、そしてもっとも重要なことの一つです。」

そして、父の回想から再びスピーチは「システム」の話題に戻る。

I have only one thing I hope to convey to you today. We are all human beings, individuals transcending nationality and race and religion, and we are all fragile eggs faced with a solid wall called The System. To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong—and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others’ souls and from our believing in the warmth we gain by joining souls together.
「今日、皆さんにお伝えしたいことはたった一つしかありません。それは私たちは国籍も人種も宗教も超えた個としての人間だということです。そして、私たちはみな『システム』と呼ばれる堅牢な壁の前に立っている脆い卵です。どう見ても、勝ち目はありません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい。もし、私たちにわずかなりとも勝利の希望があるとしたら、それは自分自身と他者たちの命の完全な代替不能性を信じること、命と命を繋げるときに感じる暖かさを信じることのうちにしか見出せないでしょう。」
Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow the System to exploit us. We must not allow the System to take on a life of its own. The System did not make us: we made the System.
That is all I have to say to you.
「少しだけそれについて考えてみてください。私たちはひとりひとり手に触れることのできる、生きた命を持っています。『システム』にはそういうものはありません。だから、私たちは『システム』が私たちを利用することを、『システム』がそれ自身の命を持つことを防がなければなりません。『システム』が私たちを作り出したのではなく、私たちが『システム』を作り出したのだからです。
これが私が言いたいことのすべてです。」

「システム」を国家権力とか暴力装置とかあるいは資本主義体制というふうに実体として読んだ人には、どうして村上春樹が「父」の話をここに挿入したのか、その意図がわからないだろう。
村上春樹が問題にしているのは、「物語」であり、より広くは「言葉」のことである。
わが身に空洞のように穿たれた「死の影」を「父」自身はついに言葉にすることができなかった。
そして、それを抱え込んだまま死んだ。
けれども、その「言葉にすることのできないもの」こそが「父」の soul であり、「父」の唯一無二性を担保していた、と村上春樹は考えている。
「言葉にできる」というのは理解され、共有されるということであり、それは「かけがえのなさ」uniquenesse「代替不可能性」irreplaceablity という「いのち」の定義に悖る。
言葉にすることができないものが、私たちひとりひとりの「命」soul をかたちづくっている。
作家はそれに「寄り添う」ことを本務とする。
村上春樹は「父」を主題にして物語を書くことにいまだに成功していない。
これからも成功しないかもしれない。
それだけ彼が寄り添おうとしている「卵」は脆いということだ。
村上春樹はいっさい中華料理を食べない。食べることができない。
中国にかかわるある種のオブセッションかもしれない、と村上春樹はどこかで書いていた。
「飲み込むことができない」というのは、きわだって象徴的なふるまいである。
中国についてのある経験(それは彼自身の経験でさえない)が名付けられ、理解され、類別され、忘却されることを拒んでいる。
その「名付けられ、理解され、類別され、忘却されることを拒むもの」が「父」の soul であったと、それが無言のまま遺贈された、と。そう「息子」は感じている。
その「遺贈された空洞」が村上文学の「核」のひとつを形成していると私は思っている。
どうして、そんなことが言えるのかといえば、私もまた「父」から「戦争についての沈黙」を遺贈された「息子」のひとりだからである。
幸運にも、そのような「子どもたち」は私たちの国には私たちの世代を最後にして、もう存在しない。
けれども、世界中で、いまも繰り返し生まれ続けている。
村上春樹は彼らに向かって語りかけているのだと思う。
System というのは端的には「言語」あるいは「記号体系」のことだ.
私はこのスピーチをそう理解した。
「政治」とは「記号の最たるもの」である。
現に、このスピーチの中の「システム」を「記号」に置き換えても意味が通じる。

「私たちはみな『記号』と呼ばれる堅牢な壁の前に立っている脆い卵です。どう見ても、勝ち目はありません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい。もし、私たちにわずかなりとも勝利の希望があるとしたら、それは自分自身と他者たちの命の完全な代替不能性を信じること、命と命を繋げるときに感じる暖かさを信じることのうちにしか見出せないでしょう。
考えてみてください。私たちはひとりひとり手に触れることのできる、生きた命を持っています。『記号』にはそういうものはありません。だから、私たちは『記号』が私たちを利用することを、『記号』がそれ自身の命を持つことを防がなければなりません。『記号』が私たちを作り出したのではなく、私たちが『記号』を作り出したのだからです。」

私はこの言葉に遠い昔に読んだブランショの一節を思い出した。
何度目の引用になるかわからないけれど、その一節をもう一度引いておこう。

神を見た者は死ぬ。言葉の中で言葉に生命を与えたものは息絶える。言葉とはこの死の生命なのだ。それは「死をもたらし、死のうちで保たれる生命」なのだ。驚嘆すべき力。何かがそこにあった。そして、今はもうない。何かが消え去った。
(Maurice Blanchot, La Part du feu, Gallimard, 1949)

ブランショが「言葉に生命を与えたもの」と名づけたもの。言葉のうちに息絶えるもの。
それを村上春樹は soul と呼んでいるのだと私は思う。
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