修士のクロダくんが論文について相談に来る。
修論のテーマは「学生運動」だそうである。
40年前の学生運動のことについて調べたいという。
私が彼女の年齢のとき(1973年)、その40年前というと、1933年である。
ヒトラーが政権を執り、松岡洋右が国際連盟の会議場から歩き去り、滝川事件が起きた年である。
どれも、私にとっては「ジュラ紀ほど大昔の話」である。
だから、ナチスが政権を執ったときのことをリアルタイムで知っている人なんかの話を聴くと、「生きる現代史」みたいな古老だと思っていた。
けれども、よくよく考えてみたら、私自身がもう彼女たちの世代から見たら「歴史的事件を語り継ぐ」古老の立場にいたのである。
69年の全国学園闘争とは何であったのか、お嬢さん、それをこの老人に聴きたい、と。
ほうほう、それは奇特な心がけだのう。
だが、あの話を若い方にご理解いただくためには、明治維新から説き起こさねばならぬのだよ。
少し話しが長くなるので、まあ、縁側に座って、お茶でも飲みながら聴いてくだされ。
新左翼の学生運動というのは、幕末の「攘夷」運動の3度目のアヴァターなのだ。
そのことを政治史家たちが見落としているのはいささか私には腑に落ちぬことである。
ご存知のとおり、日本における学生運動は全学連(全日本学生自治会総連合)とともに始まる。
余談だが、「全日本学生自治会総連合」というのは長いわりにはたいへん覚えやすい。
5・7・5になっているからである。
「万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校」
という俵万智の名歌があるが、それに匹敵するナイスなネーミングである。(梁川兄から「引用が間違っている」旨ご指摘メールがありました。すみません。俵万智さんに伏してお詫び申し上げます)
私がそのころ句壇の選者であったら、これを1948年度最優秀句に採ったであろう。
閑話休題。
その全学連を基礎づけたものは何かというと、これは「果たされなかった本土決戦」をもう一度やり遂げなければ、日本の精神的再生はありないという青年たちの「攘夷の本懐」だったのである。
全学連の中心メンバーたちはほとんどが敗戦時に小学生か中学生である。
彼らは「少国民」として皇国不敗を信じ、神風を信じ、最後の一兵まで戦うのだという大人たちの言葉を信じた。
そして裏切られた。
そのあとの「敗戦国の平和」を戦後生まれの私たちはのんびりと享受していたが、敗戦を5歳から15歳の間で迎えた私より10歳から20歳年長のこの人たちは違っていた。
彼らは何よりも熱い「恥」の感覚に貫かれたまま戦後の荒々しい社会を生きた。
そういう彼らが武装闘争路線をとった共産党の山村工作隊・中核自衛隊構想に惹きつけられたのは当然である。
年長世代が放棄した「本土におけるゲリラ戦」を彼らが継続しなければ、本当の意味で戦争は終らない。
けれども、六全協で共産党は武装路線を放棄し、「ウッド・ビー・ゲリラ戦士」たちは切り捨てられた。
そのときの若者たちの途方にくれた心情は柴田翔の『されどわれらが日々』に詳しい。
だが、共産党に切り捨てられた全学連主流派はなおも「攘夷」の戦いを継続することを望んだ。
東条内閣の商工相で A 級戦犯だった人物がアメリカの軍事的属国になることで「国體」を延命させようとする政治工作を否とする青年たちに国民たちは敗戦国民として当然の心情的共感を寄せたのである。
しかし、国民的支援を得ながら、60年安保闘争に学生たちは敗れた。
その後、組織的な離合集散を経たあとに、再び全学連がメディアの耳目を集めたのは、佐世保闘争と羽田闘争を三派系全学連(共産主義者同盟、革共同中核派、社青同解放派)が領導したことによってである。
羽田と佐世保という場所の象徴的な意味はあきらかである。
彼らは「神州の開港地に入ってきた植民地主義的洋夷を討ち果たす」ために戦っていたのである。
それが「戦われなかった本土決戦」の再演であることを日本国民に周知させるために、武器は「竹槍」以外ではありえなかった。
だから「ゲバ棒」という脆弱な材木をあえて調達したのである。
このときからデフォルトになったヘルメットも頭部保護のための実用性よりもむしろ装飾性にまさっていた。
「兜」の場合と同じように、ヘルメットの前面には「前立て」の代わりに党派名が書かれていたし、巨大な旗には「○○大学自治会」というふうに身元を示す情報が家紋よろしく大書されていた。
学生たちは無意識であっただろうけれど、彼らは戦国武士のエートスをもって「攘夷の戦い」に立ったのである。
このときに日本の若者を駆り立てたもっともつよい心情は「廉恥」であった。
1967、68年というのはベトナム戦争の激戦期である。
インドシナでは、世界最大のアメリカ軍がその最高の軍事技術を以て、痩せこけた農民ゲリラたちを殺戮していた。けれども、このゲリラたちはしばしば「竹槍」レベルの武器で一歩も譲らずに米軍と戦っていた。
ベトナム戦争は私たち日本人を恥じ入らせた。
理由の一つはもちろん私たちがベトナム戦争の米軍の後方基地となって、アジアの農業国を破壊する仕事の「余沢」に浴して高度経済成長を遂げていたという事実のもたらす「疚しさ」であった。
だが、「私は破壊の加担者だ」という告白はまだしも口にしやすいものであった。
もう一つの疚しさは意識化することにつよい抑圧が働いていた。
それは1945年の8月15日からあと日本列島で展開するはずだった「本土決戦」をベトナムの人々が粛々と継続していることに対する「日本人としての恥」の感覚である。
私たちが放棄した戦いを彼らは堂々と行っている。
自分が「卑屈で臆病だ」ということを認めることは自分の「邪悪」さや「愚鈍」さを認めることよりはるかに困難である。(「俺はワルモノだよ」とか「ぼく、バカですから」と私たちは笑いながら言えるが、「私は卑しい人間です」と言うことはむずかしい)。
けれどもベトナム戦争の報道が日々日本人に否応なしに突きつけたのは「私たちは卑しい」という事実だったのである。
どれほど経済が繁栄して、生活が豊かになっても、アメリカの「核の傘」の下で軍事的に安全になっても、「卑しい国の民」という刻印は消すことができない。
別に他の国の人たちは日本人のことをとりたてて「卑屈な国民」だと思ってはいなかっただろう。
けれども、それは日本人が自分のことを「卑屈な国民」だと思うことを妨げない。
そして、現に1970年前後、ベトナム戦争の激戦期に日本人の自己卑下はその限界に達していた。
それを癒すためには、たとえ自己破壊的な、自殺的なものであろうと、日本人自身によって「攘夷」の戦いが担われるしかない。
私たちはそんなふうに考えたのである(実際には「考えた」わけではない)。
ベトナムで絶望的な戦いを戦っている人々への連帯は「自分自身が機動隊に殴打されて血を流すこと」を通じて示すしかない、と。
だから、三派全学連の闘争に野坂昭如や五木寛之や大島渚たち「焼跡闇市派」の世代がつよい共感を示したのは心理的には平仄が合っている。
70年安保闘争は最終的にハイジャックや爆弾テロや連合赤軍による陰惨な仲間殺しで終わったけれど、それはこの闘争全体が「私たちが私たち自身に罰を与える」という自罰的な動機に発するものだと考えると理解しうるのである。
もうあれから40年が経つ。
あの熱狂は何だったのか、今でも私はときどき考える。
そして、近代150年、日本人が「攘夷」の心情に駆り立てられるときだけ異常に行動的になるという強迫反復に改めて驚くのである。
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(2009-01-10 10:01)