私は論争ということをしない。
自分に対する批判には一切反論しないことにしているから、論争にならないのである。
どうして反論しないかというと、私に対する批判はつねに「正しい」か「間違っている」かいずれかだからである。
批判が「正しい」ならむろん私には反論できないし、すべきでもない。
私が無知であるとか、態度が悪いとか、非人情であるとかいうご批判はすべて事実であるので、私に反論の余地はない。粛々とご叱正の前に頭を垂れるばかりである。
また、批判が「間違っている」なら、この場合はさらに反論を要さない。
私のような「わかりやすい」論を立てている人間の書き物への批判が誤っている場合、それはその人の知性がかなり不調だということの証左である。そのような不具合な知性を相手にして人の道、ことの理を説いて聴かせるのは純粋な消耗である。
というわけで私はどなたからどのような批判を寄せられても反論しないことを党是としている。
それに、私の知る限り、論争において、ほんとうに読む価値のあるテクストは「問題のテクスト」と「それへの批判」の二つだけである。それ以後に書かれたものは反批判も再批判もひっくるめて、クオリティにおいて、最初の二つを超えることがない(だんだんヒステリックになって、書けば書くほど品下るだけである)。
だから、最初の批判が登場した段階で、論争の基礎資料はすでに整っているわけであって、これに贅言を加える要はないと私は考えている。
論の正否の判定をするのは当人たちではなく、読者のみなさんである。
などと書いているくせにまた物議を醸しそうなことを正月早々書く。
私は日本文藝家協会に入っている。
前にも書いたように、この協会の活動の柱の一つは著作権の保護である。
著作権の保護に異論のある人はいない。
問題は著作権という「私権」が「公共の福利」としばしば齟齬することである。
日本文藝家協会が今問題にしているのは「検索エンジン」の違法性である。
グーグルには「書籍検索」という機能があるらしい(アメリカでは実施されているけれど、日本ではまだ)。
協会から送ってきたパンフレットには次のように書いてある。
「ここでは書籍の宣伝のために、本体の2割程度の内容が本屋で立ち読みするように読めるようになっていて、ユーザーが打ち込んだキーワードがその部分にあれば、表示されるようになっています。ユーザーは世界中の書籍から、自分が求めているテーマに言及した書籍を探しだし、その部分を読むことができるのです。(…) アメリカではいくつかの大学図書館の蔵書なども検索の対象になっています。その場合は全文が読めます。」(「文藝著作権通信」、第10号、NPO文藝著作権センター、2008年12月)
ネットで本がどんどん読めるというのは、私にはたいへんけっこうなことのように思える。
そのことのどこが悪いのであろうか。パンフレットはこう続く。
「ネット検索だけで調べ物ができるということになれば、それは書籍の売り上げに影響します」
ということらしい。
「新刊書の場合は読める部分が2割程度に限定されるとはいっても、短編小説なら全文読めてしまいますし、コラムや詩、短歌、俳句なら、1ページ読んだだけで作品の全体をただで読めることになります。これでは明らかに損失が出ているように思えますが、フェアユースという考え方では、とりあえずシステムを稼働させてみて、問題があれば苦情を受け付け(すでに日本でも苦情が出て削除されたケースがあります)、それで問題が解決されなければ裁判ということになります。いずれにしても、著作権者が不利な立場におかれることはまちがいありません。」
うーむ。
申し訳ないけれど、私はこのロジックには同意することができない。
とりあえず私の場合、書物を刊行したり、論文を書いたりするのは、一人でも多くの人に読んで欲しいからであり、一円でも多くの金が欲しいからではない。
こちらからお金を払っても申し上げたいことがあるので、本を書いているのである。
現に、私の最初の何冊かの本は自費出版である(『現代思想のパフォーマンス』も『映画は死んだ』も自分でお金を払って本にしてもらった)。
私が「著作権者の不利」と見なすのは、第一に私の書いたものへのアクセスが妨害されたり、禁止されたりすることであり、それ以外はどれも副次的なことにすぎないと考えている。
もし著作物が一人でも多くの読者に読まれることよりも、著作物が確実に著作権料収入をもたらすことが優先するというのが本当なら、物書きは「あなたの書いた本をすべて買い取りたい」という申し出を断ることはできないはずである。買った人がそれを風呂の焚きつけにしようが、便所の落とし紙にしようが、著作権者は満額の著作権料を得たことを喜ぶべきである。
と言われて「はい」と納得できる書き手がいるであろうか。
ネット上で無料で読もうと、買って読もうと、どなたも「私の読者」である。
本は買ったが、そのまま書架に投じて読まずにいる人は「私の本の購入者」ではあるが、「私の読者」ではない。
私が用があるのは「私の読者」であって、「私の本の購入者」ではない。
著作権についての議論ではどうもそこのところが混乱しているような気がする。
もの書く人間は「購入者」に用があるのか、「読者」に用があるのか。
私は「読者」に用がある。
読者の中には「本を購入しない読者」がいる。
図書館で読む人も、友だちから借りて読む人も、家の書架に家族が並べておいた本を読む人も、ネットで公開されたものを読む人も、さまざまである。
どれも「自分では本を購入しない読者」たちである。
だから、彼らの読書は著作権者に何の利益ももたらさない。
けれども、おそらく「本読む人」の全員はこの「本を購入しない読者」から、その長い読書人生を開始しているはずである。
私たちは無償のテクストを読むところから始めて、やがて有償のテクストを読む読者に育ってゆく。
この変化は不可逆的なものであると私は考えている。
私たちの書架にしだいに本が増えてゆくにつれて、そこにはある種の「個人的傾向」のようなものがくっきりと際だってくる。
書架は私たちの知的傾向を表示する。それは私たちの「頭の中身の一覧表」のようなものである。
だから、「本読む人」は必ず「個人的な書架」を持つことを欲望する。
その場合書架に並べられるのは、おおかたが購入された書物である。
図書館の本や借りた本やネットで読んだ本はそこにずっと置いておくことが出来ないからである。
もし物を書く人間に栄光があるとすれば、それはできるだけ多くの読者によって「それを書架に置くことが私の個人的な趣味のよさと知的卓越性を表示する本」に選ばれることであろう。
「無償で読む読者」が「有償で読む読者」に位相変換するダイナミックなプロセスにはテクストの質が深くコミットしている。
「この本をぜひ私有して書架に置きたい」と思わせることができるかどうか、物書きの力量はそこで試される。
原理的に言えば、「無償で読む読者」が増えれば増えるほど、「有償で読む読者」予備軍は増えるだろう。
だから、ネット上で無償で読める読者が一気に増えることがどうして「著作権者の不利」にみなされるのか、私にはその理路が見えないのである。
ネット上で1ページ読んだだけで、「作品の全体」を読んだ気になって、「これなら買う必要がない」と判断した人がいて、そのせいで著作権者に入るべき金が目減りしたとしても、それは読者の責任でもシステムの責任でもなく、「作品」の責任である。
そう考えることがどうして許されないのか。
PS: 同じパンフレットが鈴木晶先生のところにも送られてきたらしく、鈴木先生もこの著作権の考え方に批判的なコメントを寄せておられた。こちら(12月29日)もぜひご一読願いたい。
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(2009-01-07 11:03)