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仕事納めはラジオ

今年は早手回しに煤払いも終わり、年賀状も出し終えたので、今年最後のお仕事に出かける。
元旦に放送する「時事放談」みたいな番組の収録のためにNHKに伺ったのである。
収録済み識者諸氏の時事についてのコメントを伺ったあと、解説委員の五十嵐公利さん(うっかり「アナウンサーの」と書いてしまいましたが、一昨日はたまたまアナウンサー役を私相手にやってくださったのでした。肩書き間違えてすみません)を相手に私が1時間半にわたって勝手なことぺらぺらしゃべるのを元旦に全国放送するという大胆な番組である。
最初はこれを元旦に渋谷から生放送でやるという企画だったのである。
企画した人々の度量の大きさというか見境のなさに驚嘆するのであるが、さいわい私は「お正月はお雑煮食べたり、娘にお年玉あげたり、いろいろ忙しいのでダメです」とお断りすることでことなきを得た。
それで済んだと思っていたら、じゃあ生放送は諦めて、年内に大阪で収録しますということになった。
せっかくそこまで先方が折れてくれているのに、「いやじゃいやじゃ」とごねるのも良識ある市民として、またきちんと受信料を銀行引き落としで支払っている視聴者の一人としての責任ということも配慮した場合いかがなものかと反省して、師走の寒風の中を谷町四丁目までとことこ出かけたのである。
ラジオというのはたいへんカジュアルなメディアで、スタジオに行って「あ、ども。ウチダです」と挨拶をして、コーヒーを一服して、進行表を一瞥したところで、「じゃ、ぼちぼち始めますか」とたちまち仕事が始まる。
私は「日本一のイラチ男」であるので、ことが始まるまでにぐずぐずするのが大嫌いである。
広告代理店がらみの仕事は一切やらないと公言しているのは、あの業界では仕事が始まる前に「打ち合わせ」とか「顔合わせ」とか「パブリシティ用写真撮影」とかで50人くらいの人間と会ってそのたびに名刺交換しなければならないのだが、その有用性が私にはまったく理解できないからである。
某代理店との打ち合わせのときには会議室に15名くらい代理店の人間が並んで、「ここで本番の芸をしてみろ」と強要されてびっくりしたことがある。ここで「本番の芸」をしたら、本番ではまた別の芸をしなければならない。代理店の諸君はそれでよいかもしれないが、私は厭である。
さらに驚いたことに、そのあと「軽く打ち上げ」に北新地にむりやり連れて行かれ、その席には打ち合わせにもいなかった15名くらいの社員がもう先に来ていて、スポンサーの金でじゃんじゃん飲み食いしていたのである。
「100年に一度の危機」の逆風の中で広告代理店も苦戦と伺っているが、このような無意味な蕩尽のツケはいつかは払わねばならぬのである。
閑話休題。
とにかくラジオは「こんちは」「あ、じゃ始めますか」で始まり、「終わりました」「あ、お疲れ様でした」で終わる。無駄な名刺交換もないし、「どうです、このあと新地でちょっと」などという無意味な接待もない。
ジーパンにポロシャツにセーターにダウンコートという御影のライフに大根を買いに行く時と同じ格好で全国放送に出演できるというのが好ましい。
で、放送の内容であるが、これが自分で言うのも変ですけれど、たいへんに面白い。
コメントしている識者は「子どもと教育と格差社会」の問題が雨宮処凜、水谷修。医療問題が多田富雄、色平哲郎。科学と市民の問題を益川敏英。国際関係を北岡伸一。経済問題を宇沢弘文。
聴いて驚いたのは、ほとんど全員が「競争から共生へ」という趨勢を指摘した上で、共生のための市民的成熟の必要性、そしてイデオロギーや原理をしりぞけて、あくまで「生身の人間」の生活実感を思考の原点とすることのたいせつさを述べていたことである。
とりわけ宇沢先生と益川先生のお言葉が私には身にしみた。
宇沢先生は「社会的共通資本」について語っておられた。
社会的共通資本というのは、自然、環境、教育、芸術、医療、福祉制度など「生身の人間」の豊かな生活と再生産を担保するために必須のインフラのことである。
これは単一の組織や個人が占有したり、一元的に管理したり、投機的に売り買いしたりしてはならないものである。
先日の大瀧詠一さんとのラジオ座談会でも、大瀧さんは「パブリックドメイン」の重要性を繰り返し語っておられた。大瀧さんの「パブリック・ドメイン」論もまた宇沢先生の「社会的共通資本」論とも深いところで繋がっているように私には思われた。
「入会」(「にゅうかい」じゃなくて「いりあい」と読んでね)という概念の重要性についてはつとに『日本人の法意識』の中で川島武宜先生が指摘されている。
「入会」とは地域住民が一定の範囲の森林や原野や漁場について、そこから発生する資源(木材、薪、魚など)を共有することである。
川島先生は「入会権」の研究をつうじて、それが日本人の共同体構築技術の根幹にかかわるものであることを解明した。
「所有物についてどのような行為もなし得るということは、現代においては、所有者である以上当然であるように見える。しかし、このことは近代法(資本制社会に固有の法)の歴史的特質にすぎない。近代以前の社会では、土地、山林、原野、河川等については、それぞれの『物』の性質・効用に応じて、またそれぞれの主体に応じて、限定された異る内容の権利が成立したのであり、(・・・)そうして、それらの権利は言わば並列的に、ひろい意味での『所有』と呼ばれていた(たとえば、地代徴収権者は上級所有権 Obereigentum 或いは直接所有権 dominium directum をもち、地代を払う耕作権者は下級所有権 Untereigentum 或いは利用的所有権 dominium utile をもつというふうに)。だから、一つの物の上に重畳して、いくつもの『所有権』が成立し得たのである。」(『日本人の法意識』、岩波新書、1967年、65頁) 
このようなあいまいな所有権意識というのは私たちの資本主義社会では原理的に排除されている。
所有権は「あるか、ないか」の二者択一であり、「所有しているような、していないような」複雑な運用になじまない。
けれども、やりとりされてはならないもの、個人によって商品として所有されてはならないものがこの世には存在する。
森林や原野や河川や湖沼はそのようなものである。
医療や教育や警察もそうである。
芸術も伝統的な技芸も世界の成り立ちについてなにごとかを教える情報もそうである。
たしかにこれらのリストのうちには商品的な性質をもつものがある。
私たちは森林や原野を「不動産」として購入し、私的に占有し、それを破壊して、そこにコンクリートのビルを建てる権利を持っている。
医療機関や教育機関を私的に所有して、医療行為や教育コンテンツを「商品」として売り買いすることもできる(そこでは金のある人間だけが質の高い「商品」を手に入れることが出来る)。
芸術作品や学術情報もそうなりつつある。コピーライトとか知的所有権というのは、そういう「本来誰によっても占有され得ないはずのもの」を商品にするための理論装置である。
私的所有権を「所有の原基的形態」とすることによって(それが資本主義というものだ)、私たちの社会はすべてのものが「個人の所有物」で埋め尽くされた。
私たちの社会から益川先生の言うような「市民」が消えつつあるのは、おそらくそのせいである。
市民とは、「公的なもの」とのかかわりかたに習熟した人のことである。
市民的成熟は「商品を私的に占有する」経験をどれほど積み重ねても、身につくものではない。
そうではなくて、「個人が私的に所有することができないし、するべきでもないもの」(それが「社会的共通資本」であり、「パブリックドメイン」であり「入会」である)をどのようにして他者と共有するか、その「やりくり」の技術を錬磨してゆくことを通じて、ひとは「市民」となるのである。
それは「競争によって他者を蹴落とす技術」とは無縁であるし、他者を威圧し、他者から畏敬されるだけの経済力や暴力をどうやって確保するかという戦略の延長上にもない。
私が私有できず、あなたも私有できないものが私たちの生存を支えている。それをどうやってともに守るのか。
社会的共通資本についての議論は(環境問題がその典型だが)「社会的共通資本を適切に管理するやり方を知っている私」に全権を委ねよという議論にすぐに転がってゆく。
そういうことを言う人は「社会的共通資本」という概念を取り違えている。
たいせつなのは資本「そのもの」ではなく、資本を「共有する作法」だからである。
そういうことを話したかったのだが、川島先生の話までたどりつけなかったので、ここに「あとぢえ」で記すのである。
1月1日午後7時20分からNHKラジオで放送します。みんな聴いてね。(これも時間間違えて書いてました、すみません!)

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2008年12月30日 10:04 に投稿されたエントリーのページです。

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