いいまつがい

2008-11-20 jeudi

麻生首相がまたまた舌禍事件を起こした。
官邸での知事会議の席で、医師不足についてコメントしてこう述べたと毎日新聞は伝えている。
「自分で病院を経営しているから言うわけではないが、医者の確保はたいへんだ。(医師には)社会的常識がかなり欠落している人が多い。うちで何百人扱っているからよくわかる」と地方の医師不足の原因をもっぱら医師側の「常識の欠落」に求めた。
さらに首相は「正直これだけ(医師不足が)はげしくなれば、責任はお宅ら、お医者さんの話ではないのか。しかも、お医者さんを『減らせ減らせ、多すぎだ』と言ったのはどなたでしたか」と過去の医師会の立場を批判した。
1970年代に一県一医大構想と私立医学部の新設で医学部定員が急増し、「医師過剰」による競争激化が懸念されたのは事実である。そのときに医学部定員を最大時の7%削減し、以後20年以上抑制傾向が続いていた。それが、このところの医師不足で先般50%の定員増に踏み切ったばかりである。
私は医療行政については門外漢であるが、過去四半世紀にわたる医学部定員抑制に過当競争を嫌う医師会の意向が反映していたというのは事実であろう。
けれども、医師会が医師数を減らすことで、医療環境を劣化させることを望んだということは常識的に考えてありえない。
競争が過当にならない程度、医療水準の質が高く維持できる程度の医師数を現場は望んでいたはずである。
その数値はおりおりの状況を勘案して、「さじ加減」で決めるしかない。
「さじ加減」をするのは厚労省の仕事であり、もし「さじ加減」が失敗して今日の医師不足があるのだとしたら、その責めは法理的には歴代の総理大臣が負うべきものであろう。
麻生太郎首相の言い分はいつも構造的に似ている。
それ自体はたしかに根拠のある一つの「事実」だけをうるさく言い立て、それ以外の(彼が言い立てる「事実」とうまく整合しない)諸「事実」は無視する。
先般の「定額給付金」における「地方分権」という言い分も「それだけ」を取り出すと、部分的には整合的である。
けれども、全体的コンテクストの中ではきわめて奇矯なものに映る。
たとえて言えば、前日学校を早退した友人に「昨日はなんで帰ったの?」と質問したときに「電車で」と答えられたような違和感が麻生首相の発言にはつねにつきまとう。
たしかに「昨日はなんで帰ったの?」という質問を「帰宅の手段」についての問いと解することは可能であるから、この問答には何ら論理的瑕疵がないと言い立てることは可能である。
でも、ふつうは「そんなことを訊いているんじゃない」ということは誰にでもわかる。
前後の「文脈」というものがあるからだ。
だから私たちは問いに答える前に「この人はこのことを問うことによって、何を問おうとしているのか?」と自問する。
問う人がどういう口調で、どういう表情で、どういう姿勢で、どういう立場から、どういう利益を求めて(あるいはどういう不利益を回避するために)それを問うのかを考える。
手がかりは文言それ自体のうちにはない。
文言の外に遊弋する無数の「非言語的なシグナル」を熟視して、「そう問うことを通じて問いたいこと」を言い当てる。
麻生太郎というひとはこの「非言語的シグナル」を読み当てる能力にどうやら致命的な欠陥があるようだ。
それはこの人の「言い間違え」に端的に表れている。
彼が「踏襲」を「ふしゅう」と読み、「未曾有」を「みぞゆう」と読み、「頻繁」を「はんざつ」と読んだことをメディアは「無教養」のしるしだと理解している。
私は違うと思う。
「頻繁」を「はんざつ」と読み違えたのはただのケアレスだろうけれど、「踏襲」とか「未曾有」を読み違えるというのは、それとは種類の違う誤り方である。
首相も70歳近い人間である。これまでの生涯で他人の口から「とうしゅう」という言葉を聞いた機会は数千回、数万回あったはずである。「みぞう」はそれほど多くないにしても、議会の演説でも、テレビのニュースでも数千回は耳にしているはずである。
にもかかわらずその語の読みを誤ったということは、彼が小学生の頃から60年ほど、自分の知らない言葉を耳にしたときに「これは私の知らない言葉だが、どういう意味なのだろう?」と考えて辞書を引くという習慣をもたなかった子どもであったと推察して過たない。
どうして、知らない言葉の意味を考えなかったかというと、「自分が知らないことは、知る価値のないことだ」というふうに推理したからである。
「無知」というのはそのような自分の知力についての過大評価によって構造化されている。
「人の話を聴かない人間」は他人の話のなかの「自分にわかるところ」だけをつまみ食いし、「自分にわからないところ」は「知る価値のないたわごと」であると切り捨てて、自分の聞き落としを合理化している。
けれども、それでは「危機的状況」は乗り越えることができない。
「危機的」というのはふつう「自分に理解できないこと」が前面にせり出してきて、それが私たちの社会の秩序を根底的に壊乱させつつあるような事態のことだからである。
危機に対処するためには、「自分に理解できないこと」を「理解する」というアクロバシーが必要である。
「自分の知らないこと」の意味を探り当てるためには、「自分の知っていること」だけを組み合わせても追いつかない。
どこかで「自分の知らないこと」の「意味がわかる」という力業が演じられければならない。
私たちは非言語的なシグナル(「意味以前」)を手探りすることで「自分には意味がわからないことの意味」に触れようとする。
政治家には荒海を進む船の船長のような資質が求められる。
それは「なんだかわからない事態」に適切に対処できる能力である。
「何がなんだかわからない事態」に遭遇したときに、「私は一貫して正しい操船をしており、何かが起きたとすれば、それは『何か』の方の責任だ」と言ってはばからない人では船長は務まらない。
私たちの政治指導者はどうやら「船長」タイプの人間ではなさそうである。
これからあとも麻生首相はさまざまな「シグナル」を組織的に読み落とし続けて、舌禍事件を繰り返すであろう。
そして、「自分はちゃんと問いに答えているのに、どうして世間の連中はそれに対して文句を言うのか」と憤慨し続けることだろう。
このようなコミュニケーション感度の低い政治家をあとどれくらいの期間私たちは宰相としていただかねばならぬのであろう。
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